学校
新高校生
コロナが教えてくれたこと
あの日が最後だと知っていれば、授業中の先生の雑談さえも、愛おしく思えただろう。
あの日が最後だと知っていれば、一人で本ばかり読まずに、最後の昼休みくらい、友達と運動場を走り回っていただろう。
あの日が最後だと知っていれば、共に抱き合い、手を繋ぎ、笑い合っただろう。
あの日が最後だと知っていれば、もう入れぬ教室が、輝くものに見えただろう。
残り30日から始めたカウントダウン。
あと30日学校に行ける。
誰もが当たり前にそう思っていた。
でもそれは間違っていた。
カウントダウンは、必ずしも0に辿り着くとは限らない。
学校に行けること。
当たり前がどんなに素晴らしいことか、
コロナはそれを、教えにきてくれた。
そして、最後はいつ来るか分からないということも。
当たり前にある筈のものを失ったら誰だって悲しむ
でももしあの日が最後だと知っていても、僕は友達を作れなかっただろうし、今はもう作りたくもない - 銘無き石碑
学校なんてさ、算数とか社会科を覚える場所じゃなくて、嫌いなヤツとケンカしないで暮らすやり方を覚える場所じゃん。
2017年11月15日、ツイッターの投稿より。
甲本ヒロト
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ロックミュージシャン、作詞家、作曲家、ハーモニカ奏者(1963年3月17日~ )...
He who opens a school door, closes a prison.
学校のドアを開く者は、監獄を閉鎖する者だ。
教育は「社会の闇」から人を救うものでなくてはならない。
ヴィクトル・ユーゴー
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ヴィクトル=マリー・ユーゴー(仏: Victor, Marie Hugo、180...-ウィキペディア
経済学の制度化には、人文知よりも数字に重きをおく傾向を強める弊害があります。
哲学、歴史、思想的知性を、軽視してはなりません。
旧ソ連では、体制を批判する“有害な”人文学者は弾圧の憂き目にあった。
実際、旧ソ連共産党書記長も、中国の国家主席も、代々工学部出身。
政府を批判する不都合な言論を統制・抑圧するには、
文系学部を廃止するに越したことはない。
政財界人や有識者が、文系学部の縮小を図ろうとするのは宣なるかなと頷ける。
文学、哲学、政治学、歴史学、経済学説史、を学んでも、
すぐさま官庁や会社で役立ちそうにない。
人文学部は、無益ならまだしも、
政財界の利益に叶う政策を批判する“有害”な学者を養成する。
役に立たない?否、有害な人材を養成することに税金をつぎ込むのはけしからぬ、
と政財界のお歴々は言う。
法学部生のうち、司法界に職を得るのは高々一割止まり。
官庁や企業の事務職に就く法学部卒は、無用の学を修めた輩と見なされる。
目下、大学の人文系学部に対し、批判の声が渦巻いている。
文部科学省の有識者会議で、
「文学部ではシェイクスピアの代わりに英語通訳」
「法学部では憲法の代わりに宅建法」
「経済学部では経済学の代わりに簿記や会計ソフト」
を教えるべきだなどと、
私に言わせれば暴論を唱える“有識者”がいたりする。
思考力、判断力、表現力、を養うには、人文社会系が欠かせない。
ケンブリッジ大学やオックスフォード大学で入学が最も難しいのは歴史学科だ。
実は、外交官をはじめ高級官僚の過半数が歴史学科卒なのだ。
大学四年間かけて歴史をみっちり勉強し、
法律学や経済学は、オン・ザ・ジョブで学べというのがイギリス式官吏養成法なのである。
トマ・ピケティは、米国の経済学が数理一辺倒であることに愛想を尽かし、
マサチューセッツ工科大の職を辞し、高等社会科学院に転職した。
人文知(哲学・文学・歴史学)と縁切りし、数理の奴隷と化した米国経済学界に、
ピケティはほとほと愛想を尽かしたのだ。
優秀な学生が富裕層の子弟に独占されている米国の例を見れば、
経済成長の鍵の一つは平等な教育アクセスにあることがわかるだろう。
トマ・ピケティ
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フランスの経済学者。クリシー出身。経済学博士。パリの高等師範学校の出身で、経済的...-ウィキペディア
例えばアメリカの教育制度は今とても不平等だ。
ハーバード大在籍学生の親の平均収入は、上位2%の平均収入に相当する。
上位2%の家庭以外から入学する学生は極めて少ないわけだ。
社会の流動性や機会の均等がアメリカの建前になっているが、
現実とは大きくかけ離れている。
フランスのパリ政治学院では9%。
フランスや日本でも、機会の平等は建前だけになりつつある。
トマ・ピケティ
34
フランスの経済学者。クリシー出身。経済学博士。パリの高等師範学校の出身で、経済的...-ウィキペディア
日本の教育制度は創造性を殺している。
伊藤穣一
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(1966年~) 日本出身のベンチャーキャピタリスト。 マサチューセッツ工科...
人づくりと言えば格好いいけれど、
特定の理想を掲げ同調を求める教育は、
国のために犠牲になる人間を生んだ戦時中の人民教化と変わらない。
子供はみんな違っていて、伸びる力も持っている。
教師は介添え役でいい。
大田尭
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(1918年~) 日本の教育学者。東京大学名誉教授。 戦時中、大学院在学中に...
学校などというものは、
適当にさぼりながら何とか卒業するくらいでもいいのです。
重たく考える必要はありません。
いいかげんに「入試イコール基礎能力判定の試験」といった権威付けはやめて、
各大学が文系も含めて「入るのは簡単だが出るのは難しい」という制度に改め、
その上で「ちゃんと卒業できそうな人材を選別する合理的な入試」へと
シフトすべきだと思います。
大学の国際競争力ということから考えると、もう余り時間は残っていません。
昨年あたりから東大が高校生向けの説明会を始めましたが、
合格者の海外流出を懸念する危機感は良いのですが、
本当に危機感を持っているのなら
入試と学部教育の改革スピードを上げるべきだと思います。
「面接などの主観的な判断」とか
「小論文で一字でもオーバーしたらダメ」とか
「習っていないはずの公式を使うのはルール違反」などという
腐敗した官僚主義のようなカルチャーも
一緒に葬らないといけないと思います。
百歩譲って、ペーパー一発勝負というスタイルが変えられないにしても、
数学でも物理でも、あるいは国語にしても社会にしても、
「答えの出ない難問」に向かわせて、
知的苦闘の痕跡で能力資質を判断するような問題は可能だと思うのです。
例えば「高校の教育課程を超えた部分で明らかな才能」を持っている人間が
全く評価されないというのもナンセンスな話です。
芥川賞級の純文学小説が書けても、
簿記・会計学・税制を理解してインターンさえやれば
公認会計士になれる実力があっても、
代替エネルギー開発のある分野で重要な発見をしていても、
入試では全く役に立ちません。
反対に、その大学に真剣に来る気のない、
「冷やかし受験」でも「受験テクニック」があればいくらでも合格が可能ですし、
入学後に非人道的なことをやってしまう種類の学生でも通ってしまうでしょう。
「その学生が、明らかにその大学に入学することで、
他の受験生の中で専門分野での研究や社会貢献に向かって
能力を開花させる潜在能力がある」
ということの
「その学生個人の資質、見識、意欲」などを見る部分が全くない入試というのは、
人材選抜の方法として実に非効率だと思うのです。
例えば、
採用に失敗したら最悪の場合業績の悪化に直面する民間企業が、
そんな「粗っぽい選抜」はやっていない
ということを考えれば明白だと思います。
「多くの人間の知恵を集めれば簡単に解けてしまう問題」を、
受験生個人の記憶力を「純粋に」測定するために、
密室で厳格な監視下に置き、
辞書や電卓の使用を禁止して解かせる、
その全体に問題があるのです。
今回の事件は一つの事実を暴露したように思います。
それは、入試というものが
「個性や潜在能力」を測定するということは全くやっていないという事実であり、
にも関わらずまるで前近代の科挙試験のように
「一発の入試が人生を決める」という
バカバカしさを捨てられないでいるという点です。
『今回の事件』とは
京大入試不正事件
京大入試不正事件
真夏の暑い時期に一日練習をしたり、
メンバーだけしか練習させない学校もあるみたいですね。
1000本ノックや1000球投げ込みのような練習も、未だにあると聞いています。
同じ野球人として悲しくなりますよね。
練習は、技術を磨くためと、肉体と精神を鍛えるためにするんですよね?
短時間で効率の良い練習をした方が上達も早いし、
集中力が増した分だけ精神力も養われると思うのですが。
東大卒業生(それに京大卒業生)の世界は、非常に排他的である。
彼ら以外の者は、『エリートコース』の他の支流から来た者でも、
自分の働く省庁に本当は属していないのだとしばしば感じるという。
秦野章は中曾根内閣の法務大臣だったが、
慎ましくも日本大学(夜学)の卒業生だったので、
法務省と司法関係官僚たちからいっせいにつまはじきにされた。
カレル・ヴァン・ウォルフレン
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オランダ・ロッテルダム出身のジャーナリスト、政治学者。現在はアムステルダム大学比...-ウィキペディア
一寸先は、光。
「2006 0605 カンブリア宮殿 日経スペシャルRYU'S TALKING LIVE」より。
原田隆史
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1960年8月13日 現代日本の教育問題に関する第一人者。