知性
比較、優劣をつけるのは高度の判断力が必要である。感情、利害、縁故などのしがらみを切り捨てて理性的な選択をできるのは、きびしい、知性をもち堅実な生活をしている人のみできる。
あの男は教育こそあったが、しかし頭がなかったよ
フョードル・ドストエフスキー、レフ・トルストイと並んで、19世紀ロシア文学を代表...-ウィキペディア
知性に人格を加えてこそ、真の教育のゴールなのだ。
アメリカ合衆国のプロテスタントバプテスト派の牧師である。キング牧師の名で知られ、...-ウィキペディア
知性無き美は、囮(おとり)なき罠の如し。
知性は人間の精神的な武器である。
ロシアの文芸批評家。…-ウィキペディア
知を欲するのが人間の天性だ。
古代ギリシアの哲学者である。 プラトンの弟子であり、ソクラテス、プラトンととも...-ウィキペディア
知性も金満愚者に媚びへつらう。
イングランドの劇作家、詩人であり、イギリス・ルネサンス演劇を代表する人物でもある...-ウィキペディア
自身で知ることが、全ての知性が始まりなのだ。
古代ギリシアの哲学者である。 プラトンの弟子であり、ソクラテス、プラトンととも...-ウィキペディア
三日書を読まざれば語言味わいなし。
不可能への愛が、知性となる。
イギリスの哲学者、神学者、法学者、貴族(子爵)である。イングランド近世(ルネサン...-ウィキペディア
恋する心は、すべての知性の始まりである。
19世紀イギリス(大英帝国)の歴史家・評論家で、スコットランド出身。 スコット...-ウィキペディア
私は自己防衛を暴力などとは呼ばない。それは知性と呼ぶべきものだ。
怒れる人々は、常に知性など持ち合わせてはいない。
イギリスの小説家。イングランド南部ハンプシャー・スティーブントン生れ。Janeを...-ウィキペディア
安倍晋三首相は自分に近い学者は利用するが、批判する学者は黙殺する。
反知性というより、知性に無関心で、自説への執着はもはや宗教信仰に近い。
ただ、首相の背後に反知性的な“知恵者”の存在を感じる。
難解な問題を好まない世論の弱点を見抜き、
巧妙に批判をかわそうとする思惑が見え隠れする。
(1950~) 日本の実業家。文筆家。立教大学特任教授。
今の年寄りは、体のほうだけ成長というか、老いていって、
寿命は延びていって、
精神のほうは成長しないです。
どういう目の使い方をすればいいかというと、それは、
「中流の中以下の人が、どういうふうになってるかな、どう考えてるかな」
ということだと思います。
それが、その「とき」を本格的に観察し、解明する場合に、
機能的にいちばんいいと考えています。
人事問題から、経済問題まで、すべてがそうです。
真ん中を「含んだ下」です。
「“中”以下の人がこれからどうなっていくか」を、
ひとつ、主眼にして、
生きてる今を考え、
それを広げて自分のやってることに関連づけるんです。
そこになんだか、ほんとうのことが隠れているような気がするんです。
もし、知識を、「ほんとうの知識」として獲得できるとすれば、
知識を獲得することが同時に反知識、非知識、
あるいは不知識というものを包括していくことなんです。
ひきこもって、何かを考えて、そこで得たものというのは、
「価値」という概念にぴたりと当てはまります。
価値というものはそこでしか増殖しません。
帰するところ、最も重要なことは何かといったら、
自分と、自分が理想と考えてる自分との、その間の問答です。
『外』じゃないですよ。
つまり、人とのコミュニケーションじゃないんです。
自分と、自分が理想と考えるもの、
そことの内的な問答がいちばん大切なんです。
「面接などの主観的な判断」とか
「小論文で一字でもオーバーしたらダメ」とか
「習っていないはずの公式を使うのはルール違反」などという
腐敗した官僚主義のようなカルチャーも
一緒に葬らないといけないと思います。
百歩譲って、ペーパー一発勝負というスタイルが変えられないにしても、
数学でも物理でも、あるいは国語にしても社会にしても、
「答えの出ない難問」に向かわせて、
知的苦闘の痕跡で能力資質を判断するような問題は可能だと思うのです。
例えば「高校の教育課程を超えた部分で明らかな才能」を持っている人間が
全く評価されないというのもナンセンスな話です。
芥川賞級の純文学小説が書けても、
簿記・会計学・税制を理解してインターンさえやれば
公認会計士になれる実力があっても、
代替エネルギー開発のある分野で重要な発見をしていても、
入試では全く役に立ちません。
反対に、その大学に真剣に来る気のない、
「冷やかし受験」でも「受験テクニック」があればいくらでも合格が可能ですし、
入学後に非人道的なことをやってしまう種類の学生でも通ってしまうでしょう。
「多くの人間の知恵を集めれば簡単に解けてしまう問題」を、
受験生個人の記憶力を「純粋に」測定するために、
密室で厳格な監視下に置き、
辞書や電卓の使用を禁止して解かせる、
その全体に問題があるのです。
今回の事件は一つの事実を暴露したように思います。
それは、入試というものが
「個性や潜在能力」を測定するということは全くやっていないという事実であり、
にも関わらずまるで前近代の科挙試験のように
「一発の入試が人生を決める」という
バカバカしさを捨てられないでいるという点です。
京大入試不正事件