カレル・ヴァン・ウォルフレン 43

生 1941年4月
オランダ・ロッテルダム出身のジャーナリスト、政治学者。現在はアムステルダム大学比較政治・比較経済担当教授。 オランダ語の発音ではカーレル・ファン・ヴォルフェレンとなる。...-ウィキペディア

うちひしがれた人々の国

日本のこと。
『人間を幸福にしない日本というシステム』より。

民主主義ならば備わっているはずの、
ものごとを変える機構がまるで備わっていない。

日本について

狂信的な国粋主義者が日本を脱線させるまで、
この国は立派な近代民主主義社会になるための要素を揃えていた。

『システム』の抱き込みがいかに逃れようのないものであるか、
その典型が労働運動、教育界の一部、マスコミなどである。
これらは、他の非独裁社会では、
敵意をあからさまにはしないにしても、
既存の社会・政治権力の秩序との間で、
多かれ少なかれ垣常的な緊張関係にあるのが、普通である。
日本の“飼い慣らされた”労働組合については、すでに見てきた。
学校やマスコミも、もちろん『システム』の存続にかかわる重要な要素である。
もう一つ極端な例として、犯罪分子までが『システム』に支配されている。
『システム』の抱き込み体制がいかに広範に及んでいるかを示す好例である。
学童と、ジャーナリストと、暴力団とを、
一緒くたに論じるのは、意地が悪いと思われるかもしれない。
だが、現実には、日本の学校も新聞も犯罪組織も、
いずれも共に『システム』に仕える存在である。
日本の学校がそのいい例だが、
比較的力の弱い社会組織は、
『システム』全体の目的に完全に従わされる破目になる。

日本の教育はひそかに、
そうとはわからない形で『システム』に好意的なイデオロギーを教えているのだ。
しかしもっと重要なことは、
教育が、試験選抜制にもとづくヒエラルキーの維持に
ほぼ完全に服従していることである。
学校が、いく重にも重なり合うさまざまなヒエラルキーの成員となる人材を集め、
選別する人材選別マシンとして機能しているのである。
この選別機能は、あらゆる段階での有名校に顕著で、
人材選別以外の学校の機能はどこかに忘れ去られたと思わされるほど強調され、
その結果、日本の若者の知的成長を大いに阻んでいる。

日本の児童生徒が筆記テストで高得点をとるのは、
別に驚くべきことではない。
まさに、そのたぐいのテストのために、
小学校から訓練されるのである。
しかし、そのテストが、
たとえば自分で考えて結論を引き出したり、
事実を抽象しその抽象を理論的に構成したり、
自分の考えを小論文にまとめる、
あるいは、単に質問する能力でもよいのだが、
そういった能力を評価するテストであれば、たちまち、
日本の教育制度の欠陥がどこにあるかが露呈してしまうだろう。

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日本の教育の目標は、
educationという言葉の原義から遠くかけ離れており、
単に情報を伝えることにとどまっていると思われる。
生徒に合理的に考える能力を錬磨させるどころか、
日本の教育制度はこのような目標には冷淡である。
自発的に考え、自発的に行動することは、
ほぼすべての学校で組織的に抑えられてしまう。
独創性に対する許容度が低いのである。
生徒は、論理的に思考したり、当を得た質問をしないよう教育される。
逆に、丸暗記に重点がおかれる。

educationの語源は
『資質を引き出す』などとするのが現在一般的

ある人間が、『システム』の、どのヒエラルキーの、
どの部署の、どのレベルに行けるかを、
教育が決定づけるのは、日本に限らず大抵の国で見られることだが、
日本の場合、教育によるこの機能は、
欧米のどの国よりも、またおそらく共産圏の国よりも、徹底的に働いている。

日本では、大学教育の「質」は上層管理機構に昇るための基準にはならなかった。
議論は、教育の質でも内容でもなく、
どの権威による試験が選抜の役を果たすべきかに集中した。
東大法学部の卒業生が、今日、在学中に学ぶことは、
多くのヨーロッパの大学や質の良いアメリカの大学の学生が
卒業までに学び取らなければならないことに比べれば、
かなり内容に乏しい。

逆に、最下位ランクの大学であっても、
エリート大学より授業の質が必ずしも劣るわけでもない。
逆に、中位から上の大学は、
どれだけ内容がお粗末でもそのランクから落とされることはないし、
有名大学としての評判を失うこともない。

官庁も大企業も、就職試験はだれでも受けられることになっている。
しかし、実際には、慣例どおりの人数割制に従って、新卒者が採用される。
教育界のヒエラルキーは経済界と官界のそれに対応している。

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日本では、医・工・自然科学分野の学部を除けば、
学生が大学の四年間どんな勉強をしたかということは、ほとんど問題にされない。
法学部、経済学部、商学部では、
もっぱらそれぞれの分野で管理行政的側面から、
学者がどう言っているかを教えるだけに終始し、
単に『システム』のより高い位置に参入するために好まれる学部でしかない。

早稲田大学で四年間教えたことがあるが、
その時に知ったのは、
学内の最上位にランクされている政経学部でも、
学生はほとんど何も勉強していないということだ。
卒業は、ほとんど自動的なものだ。
『有名大学で四年間なにもしなかった学生』のほうが、
『能力はあるがランクが下の大学を出た者』よりは、
上位ランクの就職先を見つけられるのである。
たいていの学生にとって、大学は、
厳格な組織に組み込まれる企業に入る前の、つかのまの、
息抜きの場にすぎない。

多くの日本人が、
『いい大学』に入った学生は『のんびり』してもいいと考えている。
そのような大学に入るには、極度に神経をすり減らす準備が必要だからだ。
時には金や親のコネがものをいう。(特に私立医大や歯科大に入るには)

問題を作る側の教師も、
正解をかなり恣意的に決めることが多いから、
学科をきちんと教えるよりも出題者の意図が読める達人をつくる訓練に力が注がれる。
英語を例にとれば、受験生は、
実用的な英語力にはあまり自信のない教授がつくる試験に合格するように勉強する。
こうした試験には、あいまいでまぎらわしい問題や、
文法的な誤りが含まれていることも多い。
英語は、数学、国語とならんで、
大学入試の三大主要科目の一つとされていて、
生徒は大学教育まで含めると10年間にわたって英語を学ぶが、
わずかな例外を除き、英語で意思の疎通ができるところまではいかないのである。


    大学入試は、考える力を問うものにもうすぐ変わります。時代錯誤な話題は不要です。 - 銘無き石碑

    時代錯誤と言うけれど。
    考える力に目を向けるのは良いことと思う。
    けれど、それを正確に汲み取ってやれるか等と課題は多い。
    もしも、「評価者に伝わらなかった」となれば、「伝わる表現の仕方」にも気を遣わなくてはいけない。
    こうなれば、この言葉で言われている問題も、まだまだ過去の話とは言い切れないのではないのかな。 - 銘無き石碑

歴史やその他社会科学系の科目については、
ある専門家がいみじくも言ったように、
「クイズマニアのかわりに学者がつくった、
瑣末な記憶コンテスト以外のなにものでもない」

入学試験がただごとでなくなるにつれて、
学校の正規の授業時間の後に開かれる、
塾という一大下請け民間産業が繁栄することとなった。

入園に際して極端に多額の金がいる有名幼稚園もいくつかあり、
実際に、独自の入園テストをおこなっている。

元通産審議官天谷直弘は、
「わが国の現在の教育システムはロボットしか作り出せないようだ」
と述べている。
また、「日本の教育が作り出すのは芸を仕込まれたアシカだ」
と日本のもっとも多才な評論家の一人、加藤周一は言う。

『受験地獄』とそれが生みだした『教育ママ』は、
教育の全段階でわが子を押し上げるのに懸命なあまり、
子供からあたりまえの生活をとりあげてしまっている。
わが子の入試の成否は近所づきあいでも彼女の地位に大きく影響することになる。
受験生をもつ家では、
家族全員の運命がその子に託されたかのように気をつかい、
試験日が近づくとみな息を殺して生活する。
入試に失敗すれば心理的な荒廃がおとずれることにもなる。
それも、受験生本人だけではない。
子供に強いられる人間ばなれした努力、
そしてそれに伴って家族の間に広がる緊張感が、
日本の中産階級の家庭でくりひろげられる主要なドラマになっている。

ただひたすら入試に向けて勉強するために、
遊びも、趣味も、スポーツも、友達とのつき合いも、全部制限される。
それも入試前の期間ほぼずっとである。
学校と塾から戻れば、さらに深夜まで詰め込み勉強がある。
ある塾は、12歳の子供を対象に、
土曜の夜九時から日曜の朝六時までの詰め込み授業をおこなっている。
一部の子供は軍隊さながらの肉体耐久鍛練に参加させられる。
14歳で午前一時にまだ勉強机に向かっているのも、別にめずらしくはない。


    「人生は試練の連続とよく言うけれど・・・きっと、受ける必要のない試練もたくさん混じっている」
    (『爺さんと僕の事件帖』)
    この言葉を、まざまざと感じさせる。 - 名言録

このようなシステムがうまくいくのは、ひとえに、
日本の子供たちが我慢しているからであろう。
また、子供たちがこれほどまで親のいいなりになるのは、
日本の子供と母親の関係がわからなければ理解できない。
日本の典型的な子育てでは、
世の中はどう機能するかという普遍的な成り立ちを教えるのではなく、
子供の気持ちを操作することによって教えることが多い。
したがって、たいていの場合、子供は、母親の顔色を見て善悪を見分けるようになる。
つまり、教育ママは自分の子供に強い罪の意識をうえつけることができるので、
それを彼女は、子供の勉強に拍車をかける手段に使えるわけである。
入試の悩みや失敗が原因と思われる自殺が新聞などで大きく取り上げられ、
学齢期の子供の死の主因が受験地獄であるかのような印象を与えるが、
それは正確ではない。しかし、子供の人格形成上に与えるゆがみ、
親子関係のトラブルなどが、慢性的な試験不安によって悪化することはたしかだ。

ほとんどの人が、
今後も選別方式を変えるなんの手も打たれないであろうことを知っている。
つまるところ、この制度は『システム』の意向にもののみごとに合致しているわけだ。
頭の中に詰め込まれた膨大な量のデータが、ほとんどなんの役にも立たず、
学生たちが(英語の場合のように)正しく学び直すのも難しい間違った癖を
身につけてしまったとしても、
選抜されてトップまで行くような人は非常に粘り強いし、
きわめて記憶力が良いはずだということであろう。
官界と経済界が高く評価するのは、創造性よりも記憶力である。

ところで、日本の教育に対するこうした見方は、真新しいものではない。
日本最初の外国人教師の一人、アメリカ人宣教師ウィリアム・グリフィスは、
なんと1874年に日本の教師についてこう書いているのだ。
「彼らの第一の仕事は、
とにかく生徒の頭の中にしゃにむに知識を詰め込むことであった。
少年の精神力を豊かにし高め、知的なものの見方を広げ、
自分で考えられるよう教えたりしたのでは、日本教師の仕事に反するのだ」
この学校制度を通して、日本の管理者階級の出身家庭は均質化される。
表向きには出世の階段はすべての者に開かれているのだが、
貧しい家庭は、子供を授業料の高い私立校に行かせることもできないし、
一流国立教育機関へ入れるための準備ができる家庭環境を整えることは
まず無理である。

テストの達人を作り出すことに主眼をおく教育制度からは、
独創的な考えを持つ者は選び出されない。
知的好奇心は既成の秩序や慣行をおびやかす恐れがあるから、
積極的に抑えられるのだ。
このため日本の教育環境は、創造的な考えには冷たい。