五木寛之 19

生 1932年9月30日
日本の小説家・随筆家。作詞家としての活動も多い。旧姓は松延(まつのぶ)。...-ウィキペディア

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「おしゃれは悪魔の誘い」

アホらしい道楽だと思わなければ、おしゃれなんてできないでしょ。
実用的におしゃれするなんて意味がないもの。

塩野七生 五木寛之『おとな二人の午後』(角川書店,2003)51p
「いま〈慣用〉の時代がやってきた」

早熟っていうのは早老という意味でもある。

塩野七生 五木寛之『おとな二人の午後』(角川書店,2003)209p
「アートを最高に楽しむコツ」

結局、使う人と使われる人というのは立場のちがいだけなんですよ。
差別ではないんですね。
考えてみると、使われる人がプロ意識をもって、ちゃんと存在するほうがいいんだ。

塩野七生 五木寛之『おとな二人の午後』(角川書店,2003)255p
「アートを最高に楽しむコツ」

スターは存在感がすべてですね。

塩野七生 五木寛之『おとな二人の午後』(角川書店,2003)273p
「アートを最高に楽しむコツ」
展覧会を見るコツ

もしも盗むとしたら、
ここにある絵のなかでどれを盗むかということを本気で考えながら絵を見ると、
とっても真剣になれる

塩野七生 五木寛之『おとな二人の午後』(角川書店,2003)275p
「セクシーな文体と時代の風の微妙な関係」

最初からぼくは自分ひとりで仕事をしているとは思ってはいないのです。
書き手というのはお寺の鐘だと。
お寺の鐘がゴーンと鳴るのは、自分で鳴るわけじゃない。
やっぱり撞木があって、
撞木で鐘を撞く側の、時代とか読者とか社会というものがあって、ゴーンと鳴る。
でもまったく鳴らない鐘もある。割れた鐘もある。
よく鳴る鐘もあるし、低温で響く鐘もある。
錆びた鐘もあるし、澄んだ音を出す鐘もある。
そこが書き手の才能でしょう。
だから、作家はいわば鐘だと思うわけ。自分だけで勝手に鳴ってるわけじゃない。

塩野七生 五木寛之『おとな二人の午後』(角川書店,2003)302p
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「セクシーな文体と時代の風の微妙な関係」

歴史小説を書く人がおちいりやすいのは、上から見下ろすことなんですよ。

塩野七生 五木寛之『おとな二人の午後』(角川書店,2003)308p
「セクシーな文体と時代の風の微妙な関係」
関連名言 ユリウス・カエサル いかに悪‥(sekihi.net)

善意から発した悪ほど恐ろしいものはないですから。

塩野七生 五木寛之『おとな二人の午後』(角川書店,2003)309p
「セクシーな文体と時代の風の微妙な関係」

三年で古びるものでなければ、三十年後によみがえらないっていう意見なんです。
つまり、古くならないものは再生しないし、けっして新しくならない。
塩野:なるほどねえ。
三年たったら古く感じられるくらい時代と密着しなければ、
三十年後にいきいきと感じられないっていうこと。

塩野七生 五木寛之『おとな二人の午後』(角川書店,2003)313p
「セクシーな文体と時代の風の微妙な関係」
風に吹かれて(amazon.co.jp)

ぼくたちはやはり生かされてる存在だと思うんです。
自分でもぼやっとして文章書いてて、手に書かされてるって思うときだってあるもの。
頭だけでも、ハートだけでもなくてね、手が書くっていう瞬間も実際、あるんですよ。
ヨットに帆を張って、風を待ってるようなものです。
なにか大きなものに励まされて、初めて書いていけるみたいな。

塩野七生 五木寛之『おとな二人の午後』(角川書店,2003)314p
「スペンデレベーネ」したあとの静かな死

出る杭は打たれるけれど、出ない杭は腐る

塩野七生 五木寛之『おとな二人の午後』(角川書店,2003)360p
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「東京での再会「異邦人対談」番外篇」

若い人はうんとおとなびてなきゃいけない。
それで年配の人はうんと無邪気でなきゃいけない。

塩野七生 五木寛之『おとな二人の午後』(角川書店,2003)372p
「東京での再会「異邦人対談」番外篇」
眠りという豊かな原野で、人間は想像力を養い、そこで傷ついた精神を回復させる。

人生において、三分の一を占める眠る時間を尊敬しなくちゃいけない。

塩野七生 五木寛之『おとな二人の午後』(角川書店,2003)376p
「東京での再会「異邦人対談」番外篇」

ぼくの場合は、
ほら、顔を上げて空の太陽を見なさいというものの見方とは逆なんです。
直接、光源を見ても、太陽の激しい光はまぶしくて見えない。
そういうときにはうなだれて、肩を落として足もとを見る道もある、と。
自分の足もとに落ちているくっきりした影の濃さと暗さこそが、
自分を背後から照らしている光の存在を気づかせてくれるじゃないか。
ああ、たしかに光は存在し、自分を背後から照らしてくれているんだな、と。

塩野七生 五木寛之『おとな二人の午後』(角川書店,2003)377p
「政治も教育もセクシーでなければ」

真理というものは、言葉で言い尽くしたなかに生まれてくるものであって、
日本のように、あるものが真実であって、
言葉という手段を通じて、真実へ近づくのではないってことですよね。
言葉で尽くされたものこそが真実なんだと考える世界なんです。

塩野七生 五木寛之『おとな二人の午後』(角川書店,2003)169p
「いま〈寛容〉の時代がやってきた」

歴史というものはほんとうはないと思う。
歴史はフィクションなんだと考えたほうがいいという風に考えてるんです。
後年の人たちが再構築して、ありのまま構築できるっていうふうに考えてるんです。
(中略)
歴史は物語なんだと思ったほうが正しい。

塩野七生 五木寛之『おとな二人の午後』(角川書店,2003)212p

人はみな大河の一滴

『大河の一滴』より。

やっぱり溜息つく時代なんですよ今は
もう溜息も出なくなったらお終いだと思うね

「知ってるつもり 五木寛之」より。

人間は必ず決断を迫られるんです。
どっちに行っても心は残るし、
重荷は背負わなきゃいけない。
だから立ちすくむっていうのは、
そういうことだろうと思うわけです。
やっぱり生きてることは大変だなと・・・

「知ってるつもり 五木寛之」より。