比喩
飛んでいる矢は止まっている
紀元前490年頃 - 紀元前430年頃[1])は、古代ギリシアの自然哲学者で、南...
どんな美少量も0に近似してはいけない
数学の公理が一つ増えたわけです。 - imuko01
羊羹の切り口に羊羹はあるか
1921年8月1日 - 1997年2月17日 日本の哲学者。
会社などの組織の中では、
ともすれば飛車や角のような強力な人材だけを重んじて、歩のように
目立たないけれど大切な役割を果たしている人を切り捨てることになりがちです。
でも、本当はそれではバランスのよい組織にならない。
1962年4月6日生まれ。将棋棋士。
それに士気を下げるような、敵駒みたいな人も多々いる。 - 774
音楽は、人間の感情の代弁者。
日本はポール・マッカートニーだ。ポールのいないビートルズはあり得ない
米国はジョン・レノンだ。この2人がきちっとハーモニーしなければいけない
男は船、女は港
心を毒矢のような言葉で刺されることってあるよね。
かっとして毒矢の言葉は返さないほうがいい。黙って無視するのに限る。
それで免疫ができる。
ところが、相手はね、放てば放つほど負のエネルギーで消耗し、人間性が腐食していく。
だから、毒矢を返しちゃ駄目なの。
人の旅路はね、初めは初雪の上を歩くようなもので、サクサクとして気持ちよい。
晴れてきて白銀の輝きに感動する。
やがて、雪解けのぬかるみになって困難に直面する。
それを嫌がって誰かの助けを待つか、
この中に自分を磨ける何かがあるぞと手を汚して探せるかで、
悔いを残すかどうかが決まる。
歴史は、現在と過去との対話である
歴史は鏡である。
1931年生まれ。京都橘女子大学教授。
死というのは、たとえば部屋の中に水がひたひたと流れてくるようなものだ。
初めてうちは足元にちょろちょろと溜まっているだけで切迫感もないが、
それがだんだん溜まってきて膝のあたりまで来たとき、
胸まで来たとき、肩まで来たとき、口元まで来たとき、と
どのへんまで水が溜まってきたかによって感じ方がまったくちがう
1966年生まれ。看護婦。
コンピュータシステムは、
私たち人間社会のメカニズムとその構造をきれいに映し出す鏡なのである。
1955年生まれ。武庫川女子大学文学部教授。
音声は周波数のいわばカクテルジュースといえます。
1936年生まれ。聖マリアンナ医科大学客員教授。
金融関連の本は刺し身みたいだなあ‥‥‥
「独断」でもいいんだよ。
そもそも言論圏というのは、もっと荒々しいフィールドであるべきなんだ。
思想の自由市場というのは、綺麗に塗装された平坦な道路じゃなくて、地肌が剥き出しで、
岩や石がゴロゴロしていて、そこかしこに凹凸がある。そんな道であるべきなんです。
そのように議論誘発性込み、可謬性込みの自由でなければ、
言論の自由なんて意味がないと思う。
1962年10月10日生まれ。日本の評論家およびコメンテーター。
結婚するときはもう十二月。女は娘の間は五月だけど、女房になると空模様が変わる
前公爵の娘
酔い痴れた欲望は胃の腑に入れたものを吐き出して、
はじめて、おのれの厭わしさを知るものだ。
イングランドの劇作家、詩人であり、イギリス・ルネサンス演劇を代表する人物でもある...-ウィキペディア
愛は雨後の日光のように慰めるが
肉欲の作用は晴天の後の嵐だ。
愛の優しい春はいつもそのみずみずしさを保っているが、
肉欲の冬は夏がまだ半ばも過ぎないうちにやってくる。
愛は度を超してうんざりすることはしないが 肉欲は飽食して死ぬ。
愛は真実一路だが、肉欲はこしらえものの虚偽にみちている。
イングランドの劇作家、詩人であり、イギリス・ルネサンス演劇を代表する人物でもある...-ウィキペディア
嫉妬は「現実」の衣を着た「妄想」であるとき最も激しくなる
文学博士。
退屈さの中に、固有の意味を見いだしていくことになります。
意味というのは、一種の痛み止めなのです。
1986年『月刊カドカワ』1月号
どれだけ進行を遅らせたところで、老いは必ずその取りぶんを取っていく。
女というのはまるで鮭みたいだ。
なんのかのと言ったって、みんな必ず同じ場所に戻りつくのだ。
私、二流のマッチ棒よりは一流のマッチ箱の方が好きよ。
世の中に存在するあらゆる傾向はすべて宿命的な病いなのだ。
デートに? それともホテルに?