吉本隆明 78

1924年11月25日 - 2012年3月16日
日本の詩人、評論家。東京工業大学電気化学科卒業。学位は学士。東京工業大学世界文明センター特任教授(講義はビデオ出演のみ)。 「隆明」を音読みして「りゅうめい」と読まれることも多い(有職読み)。漫画家のハルノ宵子は長女。作家のよしもとばななは次女。...-ウィキペディア

「しゃべることというのは、絶対に人には通じないんだ」
と、子どものときから思っていましたし、
あまりしゃべらない人間でした。
それに、僕は、
「あいつ、不機嫌な顔をしている」
って言われる顔をしています。
これは地顔なんだよと言っても通用しねぇから、
もうそういうことは一切抜きにしたい。

親父やおふくろさんに訊きましたよ。
「どうして俺だけ、いつも憂鬱な顔してるんだ?
兄弟みんな、貧乏人なりの朗らかさを持ってるのに、俺だけどうして憂鬱なんだろうな?」
って訊いた。
そしたら、笑って答えなかった。
答えなかったけど、弟の嫁さんには、
おふくろさんが「赤ん坊のとき苦労したからね」って言ってたそうです。
赤ん坊のとき苦労したって言われたって、俺は知らねぇ(笑)
知らないけどね、つまりは経済状態です。
東京へ出てきたときには惨憺たるものだったらしいですね。
そのときにきっとおふくろさんは、
やっぱりヒステリックな子どもの育て方をしたんだと思います。
おそらく僕がいちばんそこに該当したわけです。

子どものことは基本的に、
全部親がやることだよ、
というふうに思っています。

どこかに都合よく子どもの面倒を見てくれるところがないかと、
親は思っているんだと思います。
幼稚園や保育園だけではなく、幼児教室のようなものもあって、
たくさんの子どもたちが通っています。
親も、教室の経営者も、
遊び相手や友達ができていいとか、
家にばかりいたら引きこもりになるとか、
さまざまな理由を探すでしょう。
けれども、早期教育とか、そういうところまでの意識は特にないと思います。
とにかく子どもがそこにいる間、親は、『自分の手がかからない』。
誰もそう言わないかもしれませんが、それが本音じゃないでしょうか。


    はい、そうです。全くその通りでございます。育児と言うものは何の罪も犯していないのに日々罪悪感を感じさせられ、ひとりで生きていた頃より孤独感を感じるものです。子供を死なせてはならない、真っ直ぐいい子に育てなければならないという重圧からほんの一時間でも解放されたいと思う事の何がいけないのでしょうか。24時間ずっと仕事をしろ、一瞬の気の緩みも許さないと言われたら誰でも疑問を感じるのに、母親が24時間育児をして一瞬たりとも気を緩めてはならないのはそれが母性だから、の一言で片付けられるのでしょうか。 - Nigera

僕が親としてダメだったことは、あります。
これは本当にダメ親だという証拠です。
うちの上の子がまだ小さいときです。
子どもがちょっと反抗的なことを言ったのかもしれない──そのあたりは
覚えていませんが、僕が、そばにあった時計を投げつけたらしいんです。
僕はそんなことは覚えてないけど、
うちの子の一生の恨みとして残っています。

「あ、学校で何かあったな」ぐらい、親だったらわかります。
そういう子に対して親のほうは、
いつもと同じように扱ってやれば、それでいいわけです。
「お前、今日は何かあったんじゃないか」
とか、そんなことは聞かなくていい。
そんなことを言うと、今度は話がもつれてくるから、
聞いたりなんかしないでいいんです。
いつもと同じようにしていて、
でも心の中ではちゃんとわかってるという状態、
それでいいんです。

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先生だけじゃなくて、社会的にうんと偉い人というのは、
いじめについて、そんなによくわかっているわけじゃないと思います。
だいたい政治だって外国をいじめるのに一役買っているわけだし、
国自体がそういうことをしてるから子どももそうなってきたんだ、
という理屈までくっつけて言わないと、話にならないんです。

先生だったら先生が、親なら親が、
「自分が子どものときにどうだったか」
を忘れてるんじゃないか。
子どもに、「いけないよ」と言う人が、
「自分がそうだったときに、どうだったか」
ちょっとでも考えてみればいいじゃないか。

帰するところ、最も重要なことは何かといったら、
自分と、自分が理想と考えてる自分との、その間の問答です。
『外』じゃないですよ。
つまり、人とのコミュニケーションじゃないんです。
自分と、自分が理想と考えるもの、
そことの内的な問答がいちばん大切なんです。

ひきこもって、何かを考えて、そこで得たものというのは、
「価値」という概念にぴたりと当てはまります。
価値というものはそこでしか増殖しません。

自分の時間をこま切れにされていたら、
人は何ものにもなることができません。

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学校などというものは、
適当にさぼりながら何とか卒業するくらいでもいいのです。
重たく考える必要はありません。

もし、知識を、「ほんとうの知識」として獲得できるとすれば、
知識を獲得することが同時に反知識、非知識、
あるいは不知識というものを包括していくことなんです。

ほんとうに教養のある人というのは、どういう人のことを言うか。
それは要するに、
日本の現在の社会状況、それに付随するあらゆる状況が、
どうなっているかをできるだけよく考えて、
できるだけほんとうに近いことが言えるということです。

教養については、学校や学歴がどうだということとは全然関係ないと思います。

文化が高級だとか、いい学校と言われる学校を出れば優秀だとか、
そういう馬鹿なことを言っているやつはダメだということになります。

東京大学の先生だから、教養があるかというと、それは全然違うことなんです。
東大の先生は、知識はあるに決まっているわけで、
それは「専門的に」あるということです。
教養があることとは違います。

何も知識の専門家だけを、
「専門家だ、あの人は」と言う必要もありません。
だけど、知識の専門家はテレビに出てよくしゃべって、
「すごいな」と思われる機会も多いでしょう。

自分の専門としていることに、
自分は影響されていないと思っているかもしれないけど、
それは大嘘です。
何かをやって、それが自分のものになっていたら、
その人は必ずそういう人間になっている。
それは美点としても弱点としても自分はそういうのになっているよ、ということです。
だからむしろ、「ただの人間」というのに自分を直さないと、
いつの間にかへんてこりんなことになっちゃう。

どういう目の使い方をすればいいかというと、それは、
「中流の中以下の人が、どういうふうになってるかな、どう考えてるかな」
ということだと思います。
それが、その「とき」を本格的に観察し、解明する場合に、
機能的にいちばんいいと考えています。
人事問題から、経済問題まで、すべてがそうです。
真ん中を「含んだ下」です。
「“中”以下の人がこれからどうなっていくか」を、
ひとつ、主眼にして、
生きてる今を考え、
それを広げて自分のやってることに関連づけるんです。
そこになんだか、ほんとうのことが隠れているような気がするんです。

今の年寄りは、体のほうだけ成長というか、老いていって、
寿命は延びていって、
精神のほうは成長しないです。

テレビだって、危なっかしいもので、
ほとんどなにもしてないのと同じじゃないか、と思えることもあります。
事業をしてるとも、ちょっと言いにくいんじゃないでしょうか。

芸術とは、ある意味で善悪を超えたところで咲く「花」である。

弟さんは、ぼくらにいろいろ説明してくれました。
木彫とか、金彫とかいろいろありますけど、
そういう作品を突き詰めていくと、
結局何も彫らないのがいちばんいい、
ということになる、とおっしゃるんです。
金属彫刻の大家というのは、やっぱりすごいんだなと感じました。

弟さんとは、高村光太郎の弟のこと。鋳金家。

芸術は蓄積された労働に比例して評価が上がるものではありません。