吉本隆明 78

1924年11月25日 - 2012年3月16日
日本の詩人、評論家。東京工業大学電気化学科卒業。学位は学士。東京工業大学世界文明センター特任教授(講義はビデオ出演のみ)。 「隆明」を音読みして「りゅうめい」と読まれることも多い(有職読み)。漫画家のハルノ宵子は長女。作家のよしもとばななは次女。...-ウィキペディア

結婚して子供を生み、そして子供に背かれ、老いてくたばって死ぬ、
そういう生活者をもしも想定できるならば、そういう生活の仕方をして生涯を終える者が、
いちばん価値ある存在なんだ

『敗北の構造』

ぼくはでてゆく 冬の圧力の真むこうへ
ひとりっきりで耐えられないから たくさんのひとと手をつなぐというのは嘘だから

『ちいさな群への挨拶』

読者に誤読を与えたら、まず外国文学者の翻訳の拙さを省みるべきだ。
難しい手仕事を怠る中での、キザな語学自慢は問題だ。

外国の本の翻訳版を読むことについて

この社会に生きることのどこにいいところがあるのか、
と言われたら、
どこにもないよと言うより仕方がない。

近代主義経済学とは違った等価交換のあり方を
21世紀には模索しなければいけない。

資本主義の制度に欠陥があるってことはですね、
多分、百年ぐらい前にはもうわかっていたんだと思っています。

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もともと経済学や経済論は、支配者のために書かれたもの。
ときには支配者にとって都合のよいウソが書かれていることもある。
学者のように、たとえ支配者でない人が書いたものであったとしても、
それは指導者としての目線で書かれているものがほとんど。
しかしそれを読んでいる一般大衆は、その目線の違いに気づかず、
「経済とはこういうものだ」とどこかで騙されてしまうのです。

今さら核を一発二発持ったところで世界は変わらないです。

先進国の本当の課題は、
近代以降命脈を保ってきた民族主義を、
いつどうやって死なせたらいいのか、ということだ。

日本の天皇制というのは、
アジアの極東地区の辺境国家に見られる「生き神様信仰」の一つなんです。
「生き神様信仰」は、チベット、ネパール、
東南アジア、オセアニアなどにも見られます。

天皇制とは『生き神様信仰』である。
絶対視する必要がない。

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国家というのは宗教の最後の形です。

日本の民衆が、
「公のためには個が犠牲になってもいい」という考え方に陥りやすいのは、
歴史的、地理的要因があるからで、
アジア的制度というアジア固有の国家制度が長く続いてきたためです。

法あるいは宗教あるいは儀礼あるいは風習、習慣というものを、
本来的な所有よりも、もっと強固な意味で、
自らのものであるかの如く振舞う構造のなかに、
本当の意味での、日本の大衆の総敗北の構造がある。

日本人という人種にとって一つ抜け道があるとすれば、
血縁の結合感を少し緩くしたほうがいいということですね。

僕は日本人にはエロスが薄いんじゃないかと思ってます。
民族性か種族性か、どう呼んでもいいんですけど、
この種族がエロス的にどうなのかと言えば、
全体として物凄く関心が薄いんじゃないかと思います。
日本人の中からサドとかバタイユのような、
そういう作家を求めようとしても難しい。
みんな何かにすり替わっている。


    反キリスト、キチガイエロ作家 - マルキ・ド・サド

    オウム麻原賛美 - 吉本隆明

    犬用の首輪 - 桑野貴志

日本のいわゆる知識人たちは、
奈良朝以降のことでもってしか、
「日本国」や「日本人」のことを考えないんです。
それは、当然、「おかしい」ということになるわけです。

国民国家というのは歴史的産物であり、
決して普遍的なものじゃないですよ。
現に、EUはすでに通貨を統一するなどして、
国民国家の枠を超えようとしたじゃないですか。

日本がアジア諸国の独立を促したというけれど、
占領地の民衆に対してどんなふるまいをしたのか、
それはひでえことをしたってことを、
ちゃんと裏にくっつけておかないとダメなんです。

自民党と民主党も、反対なもののはずなんだけど、今は同じなんですよ。
利害関係が同じになってる。
同じことを小さく言うか大きく言うか、
または、同じことをカッコよく言ってるかどうか、
そこだけの問題になっています。
自分たちは汚いことはしないよ、と言うのか、
自分たちのポッポに入れちゃっておいて、でも何かもう少し違うことを考えてるよとか、
そういう違いはあるかもしれないけど、
でも、そのくらいの違いなんです。

小林よしのりは国家というものを東洋的に誤解している。

ほんの少しでも国法に触れた者、
または国法に触れたと疑われている者を、
人でなしの、人間の風上にもおけぬものみたいに取り扱って恥じない。
リンチ機械としてのテレビ。

凶悪犯罪をしたから凶悪な男だとか、
そういうふうにはちっとも思えないし、
また逆に、
自分がいつ凶悪犯になるか、
それもわからないですよ。

人間判断の場合には、
それを法律機能的にだけ考えてもダメだし、
中途半端なところで倫理観を入れたり正義感を入れたり、
良心の問題を入れると、
まちがっちゃうよという感じが強いです。

いまみたいに、変なところでもって法律が介入してきちゃうことは、
やっぱりよくないことだと思います。
法律というのは、いちばん最後に、仕方がないから法律の問題になったとか、
そういうことじゃないと、意味がないです。