アルトゥル・ショーペンハウアー 91

1788年2月22日 - 1860年9月21日
ドイツの哲学者。主著は『意志と表象としての世界』(Die Welt als Wille und Vorstellung 1819年)。 仏教精神そのものといえる思想と、インド哲学の精髄を明晰に語り尽くした思想家であり、その哲学は多くの哲学者...-ウィキペディア

たとえ話は嘘ではない。なぜならば、
それは決して起こらなかった事柄を述べているのだから。

「パレルガとパラリポーメナ」より

誰かが嘘をついていると疑うなら、信じたふりをするがよい。
そうすると彼は大胆になり、もっとひどい嘘をついて正体を暴露する。

「パレルガとパラリポーメナ」より

普遍的な真理に対して人がいかに無関心でも、
個別的な真理に対しては実に執着が強い。

「パレルガとパラリポーメナ」より

人はなんでも忘れることができるが、自分自身だけは、自分の本質だけは忘れることはできない

「パレルガとパラリポーメナ」より

個々の人間にあっては、隠退と孤独への傾向の増加は、
つねにその人間の知的価値の程度に応じて生ずる

「パレルガとパラリポーメナ」より

男の愛情は肉体的な満足を得た瞬間から眼に見えて低下する。ほかのどんな女でも、彼が所有した女よりも魅力を多く持っているように思われ、変化を願望する。一方、女の愛情は、肉体的満足を得た瞬間から増大する

「パレルガとパラリポーメナ」より
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男性の間では、愚かで無知な者が、女性の間では醜い女が一般に愛され、
ちやほやされるのがつねである

「パレルガとパラリポーメナ」より

男同士は本来、互いに無関心なものだが、女は生まれつき敵同士である

「パレルガとパラリポーメナ」より

孤独はすぐれた精神の持ち主の運命である

「意志と表象としての世界」より

われわれの肉体が衣服に包まれているように、
われわれの精神は虚偽に包まれている。

「パレルガとパラリポーメナ」より

    貴方のこと本当はさほど好きじゃない。私は嘘のかたまりだ。 - 銘無き石碑

    yes,me too! - 銘無き石碑

軽信というものは、善良に生まれついた人に具わる特徴である

「パレルガとパラリポーメナ」より
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不道徳行為を望むのは、大きな誤謬の永続を望むことである。

「パレルガとパラリポーメナ」より

名声はまず獲得さねばならないが、名誉は失われさえしなければよい。
だから、名声を欠くのは無名であり、消極的なものであるが、
名誉を欠くのは恥辱であり、積極的なものである。

「パレルガとパラリポーメナ」より

騎士的名誉は高慢と狂暴の子である。

「パレルガとパラリポーメナ」より

名誉は外に会われた良心であり、良心はうちにひそむ名誉である。

「パレルガとパラリポーメナ」より

人は通常、金を貸すことを断ることによって友を失わず、
金を貸すことによってたやすく友を失う

「パレルガとパラリポーメナ」より

    自分には当てはまらないと、友人に金を貸したが、その結果はショーペンハウエル先生の言う通りとなりました。 - 銘無き石碑

    例えば、友人であっても恋人を奪ったり家族を殺したりすると当然に友情は崩壊する。
    そして金というものは恋人を養い、家族を生かすために必須のものでありその減少はつまるところ恋人とのつながりを弱め、家族を苦しめることになる。
    その金の消費は納得の行く対価をもらって初めて上記因果を克服するものであるが、そのような対価を払わずにいたのであれば、それは恋人を奪い、家族を傷付けることに等しい。
    そうであるからして、金を貸すことで友情というものは崩壊してしまうのである。 - オトコン

    分かってよかったじゃないか。 - 銘無き石碑

人は、生涯の最初の四十年間において本文を著述し
続く三十年間において、これに対する注釈を加えていく

「パレルガとパラリポーメナ」より

老人の歳月における人生は悲劇の第五幕に似ている。人間は悲劇的最後の近いことは知っているが、それがいかなるものであるかはいまだに知らない

「パレルガとパラリポーメナ」より

女たちには、ある事物についての純客観的な関心をもつ能力が欠けている。

女性は精神的近視である。

女性は、個体としてよりも、種族としてより多く生きている。

女たちの虚栄心は、
たとえ、それが男たちの虚栄心より大きくない場合でも、
全く物質的な事物、すなわち、自分を美しく飾ることとか、
ついでは、浮華、贅沢、壮麗といった面に熱中する悪癖がある。

二人の女性の間に交わされるお世辞は、
男性の間のそれよりも、はるかに滑稽なものとなる。

始源的な母性愛は、動物におけると同様に、人間にあっても、
純粋に本能的なものであり、
従って、子供たちを肉体的に援助する必要がなくなるとともに、消失する。
それから後は、始源的母性愛に代わって、
習慣と理性とにもとづく母の愛が現れなければならぬはずであるが、
往々にして、ことに、母が父を愛していなかった場合には、
それが現れてこない。

女性を全体として見るならば、
一夫多妻制のほうが、実際には幸福をもたらすことになる。


    あり得ない - さくら

    ショーペンハウアーの真意はどこか?
    それを探れずに、汚い言葉でののしるのは、表面で名言を読んでいるから。
    つまり、貴女は俗物。
    だから、「女は・・・・」と言われる・・・。
    と言っても、怒るだけでしょう。
    だから女は・・・・・・・・・・・。
    女:「キーーー!!!」
    だから女は、、、、、×無限。
    ・・・・という意味ですよ、この名言の真意は。
    名言を読むのなら、もっと深い意味で読み解くように努力しましょう。
    …と言っても、怒るだけかな・・・やれやれ。
    「女性を全体としてみる」=ショーペンハウアーの女性について書かれれてある所を全部読んでみれば自ずとわかる。
    (同じ女性として、反省し努力している者より) - 銘無き石碑

    「全体として見るならば」これは正しい - 銘無き石碑