アルトゥル・ショーペンハウアー 91
1788年2月22日 - 1860年9月21日
ドイツの哲学者。主著は『意志と表象としての世界』(Die Welt als Wille und Vorstellung 1819年)。
仏教精神そのものといえる思想と、インド哲学の精髄を明晰に語り尽くした思想家であり、その哲学は多くの哲学者...-ウィキペディア
われわれ各個人は、他人の裡に自己を写す鏡を持っている
「パレルナとパラリポールナ」より
三種の貴族がある。 (1)血統と位階の貴族。(2)財力の貴族。(3)精神的貴族が、すなわちそれである
「パレルガとパラリポーメナ」より
己の中に、真の品位や美しさ、誠実さをもて、ということ。
この世的な善や道徳ではなく、自分の内面に真の豊かさを持っている人間が真の貴族だ、と比喩しているだけのこと。
この世の貴族の分割に重きを置いて説明している名言ではない。 - 銘無き石碑
血統と国籍ゆえの「日本人」
財力を以って奢りたがぶる世界の田舎者の「日本人」
気高さと品位、責任感と人類文明への義務ゆえの「日本人」
日本は礼節と廉恥の国民と言われてきました。
その精神の骨子は長く「礼」「節」「廉」「恥」でした。
感謝の心。
自律心に支えられた行動。
気高く誇り高い生き方。
天を恨まず人を咎めず己の至らざるを恥じるサムライスピリット。
世界の貴族、地球文明下での恵まれた「日本人」
恵まれた環境に生き、より高みの権威にある者にはより大きな責任と義務。そしてより制限された権利の中に生きなければならない定めが有る
(ユリウス・シーザー)
真に「貴族」には3種類の貴族が存在するのでしょうね。 - McKee
- 銘無き石碑
人生は、幼年期には遠くから見た舞台装飾に、
老年期には間近に見た舞台装飾に似ている
「パレルガとパラリポーメナ」より
重要な思想を誰にでもわからせるように表現するほど難しいことはない。
「パレルガとパラリポーメナ」より
紙上に書かれた思想は、砂の上に印した徒歩者の足跡にすぎない。
「パレルガとパラリポーメナ」より
多く笑うものは幸福であり、多く泣くものは不幸である
「パレルガとパラリポーメナ」より
すべての享楽と、すべての幸福とは消極的なものだが、
労苦は消極的なものだ
「意志と表象としての世界」より
二段目の「労苦は消極的なものだ」は 「積極的」の間違いでは
ないでしょうか?
そうでないと全く意味が判らなくなってしまいますから。
せっかくのお仕事にケチを付けたくないのですが、
気になったのでコメントしました。
(Stander)http://stander.exblog.jp/ - Stander
何故女が不幸に対して男より深い同情を示すかといえば、
推理能力に弱みをもっているからである。
「女性について」より
睡眠は死からの負債である。睡眠は生命を維持するために、死から借りるものである。
「パレルガとパラリポーメナ」より
人間の幸福の二つの敵は苦痛と退屈である
「随筆」より
医者は人間を弱いもの、弁護士は人間を悪いもの、牧師は人間を愚かなものと見る。
「断片」より
普通人は時をつぶすことに心を用い、
才能ある人間が心を用いるのは、時を利用することである
「パレルガとパラリポーメナ」より
礼節とは、道徳的にまた知的に貧弱な互いの性質を互いに無視し合いながら、
避難しまいという暗黙のうちの協定である。
「倫理学」より
虚栄心は人を饒舌にし、自尊心は沈黙にする
「パレルガとパラリポーメナ」より
人々は閑暇を犠牲にして富裕を得る。
だが、富裕をはじめて望ましいものにする唯一のものである自由なる閑暇を富裕のために犠牲にせねばならないならば、
私にとって富裕が何になろうか。
「パレルガとパラリポーメナ」より
現存する財産は多数の可能なる害悪と災害に対する障壁とみなすべきであって、
この世の快楽を手に入れる許可とみなすべきではなく、いわんや、
その義務とみなすべきではない
「パレルガとパラリポーメナ」より
富は海水に似ている。飲めば飲むほど渇く。名声についても同じことが当てはまる
「パレルガとパラリポーメナ」より
謙譲は、平凡な能力をもつ人間の場合には、単なる誠実であるが、
偉大な才能のある人間の場合には偽善である
「パレルガとパラリポーメナ」より
結婚とは、男の権利を半分にして義務を二倍にすることである
「パレルガとパラリポーメナ」より
憐憫はあらゆる道徳律者の基準である。
「道徳の基準」より
人間の我欲を発展させると道徳になり道徳律になる
我欲少なく道徳多ければ 問題
我欲多く道徳少なければ 問題 - サイチョウ
言ってる意味が・・・・。
ショーペンハウアーの言っている道徳は、一般の道徳とは違う。
もっと根本的な人間の在り方のこと。
「仁義仁義と人が騒ぎ立てるのは、無為自然の大道が無視され、作為が世を支配するようになってからだ。
大きな虚偽が生まれたのは、知の限界が忘れられ、人間のさかしらがのさばりだしてからだ。
孝や慈という徳目が説かれだしたのは、自然の情愛が失われてからだ。
忠臣なるものが現れたのは、無為の政治がうち捨てられて、国家が乱れはじめてからだ。」
~老子~
世の賢人の言っていることは皆同じ。
頭でこざかしく考えるでない
知の限界を超えよ
無為自然=これをいかに考え、どうとらえるか
知識では無理 考えでは無理
そこに辿り着きたい 一心なる情熱と努力と経験の中にこそある。
血のにじむ努力、経験の中で得るしか、真実に辿りつく方法はない。
その中でこそ、本物の、生き生きとした 「神 真理 愛 無為自然」 という花が咲く
頭は腐った記憶の倉庫だ。 すでにあるものしかない。 - 銘無き石碑
逆境における友というものは、果たして稀であろうか。反対である!
誰かと友情を結ぶや否や、その人は苦境にさいして金を借りたがる
「パレルガとパラリポーメナ」より
宗教は無知の子供であり、その母より永くは生き延びることが出来ない。
「パレルガとパラリポーメナ」より
宗教は蛍のようなもので、
光るためには暗闇を必要とする
「パレルガとパラリポーメナ」より
信仰は愛のようなもので、強制することはできない。
「パレルガとパラリポーメナ」より
人間の社交本能も、その根本は何も直接的な本能ではない。
つまり、社交を愛するからではなく、孤独が怖ろしいからである。
「パレルガとパラリポーメナ」より