精神分析
物語は誰から与えられたものでもありません。
自分自身が人生の出来事をどのように解釈するかが物語なのです
インターンが切ろうと開腹手術すれば、そこに見えるのは同じ内蔵です。
しかし、患者の心の状態は、治療者によって異なってきます。
と〝分析〟しては、フロイト先生に対して失礼でしょうか。
自分が満たされていないものに関心が向きやすいのが人間である
分析家だからといって、患者に特別な感情を抱いていけないということはありません。
でも、実際に患者と恋愛関係になったり、セックスしたりしていいかというと、それはまた別の問題です。
精神分析にルールはない。しかし、社会のルールはある
ロイ・シェーファー(精神分析学者)と似た考えをしている学者。
「知」のないところに「情」は育たないと考えるべきなのではないでしょうか。
全盛期の松田聖子には強力なライバルがいません。
ほかにも大勢のアイドル歌手がいましたが、聖子人気にくらべれば、
皆マイナーな存在だったと言えるでしょう。
ピカチュウ以外のポケモン、キムタク以外のSMAPのようなものです。
あんな変なアイドルに曲書かなきゃよかった - 松任谷由実
小さな子どもが誰にとってもかわいらしく見えるのは、
一人で生きていけない子どもが神様から授かったサバイバル戦略なのかもしれません。
アルコール依存症の自己愛が満たされない際に起きると考えれば、
アメリカ人の場合、
「無名の人」、つまり「みんなと同じ」と感じるほうが自己愛が満たされ、
逆に日本人の場合は、
他人よりも高い段位を得ることで自己愛が満たされるのです。
もし、いっさい他人とかかわらずに「自分は自分だ」と思える人がいたら、
それは「自立」しているのではなく、
単に「孤立」していると言ったほうがいいでしょう。
心理学は、みんなを幸せにするために作られた学問です。
修行してスーパーマンになったと思っている宗教者のほうが、実は病気ですし、
心理的なトレーニングを受けて自己実現したと思っているのも、
やっぱり五十歩百歩です。
佐賀医科大学教授。
言葉の経済学のようなものが、コミュニケーションにはあると考えています。
つまり言葉は場面によっては投資にも、蕩尽にも、あるいは単なる消費にもなるのです。
佐賀医科大学教授。
人は文なり、言葉なり
佐賀医科大学教授。
精神分析家が単に善悪の判断にとらわれることなしに、
被分析者の心の声に耳を傾けていくことによって、
被分析者は無意識の扉を開ける勇気を得る。
昭和大学医学部精神医学教室講師。
私たち自身は神でも仏でもないことをよく承知した上で、
事実をそのままに見る勇気が必要なのだ
1959年生まれ。東京都済生会中央病院精神神経科医師。
そう、思います、 - 陽子
人間は適切に勇気づけられれば、
こころのなかの生命力をよみがえらせて、過酷な体験を乗り越えていく力も持っている
1959年生まれ。東京都済生会中央病院精神神経科医師。
遊びとは、現実から離反した幻想的な世界での体験であり、
どんな人間も遊びに没頭するためには、ある種の現実否認が必要である。
1960年生まれ。臨床心理士。
遊びにおぼれ、現実を否認していれば一般には社会からドロップアウトしてしまうが、
遊ぶことを本来のアイデンティティとして適応できるのが芸術家である。
1960年生まれ。臨床心理士。
芸術家は、子どもが遊びに熱中するときのように、
空想と現実の二つの世界に精通しながら独自の世界を築き上げる。
1960年生まれ。臨床心理士。
人のありようは日常的に、だれの目にも見えるように存在しているわけではない。
出会わなければ、かれは、かの女は、現れてきはしないのだ。
1925年生まれ。東京大学文学部卒。
見るものが見られ、働きかけるものが働きかけられて変わってゆく。
これは主体と客体が切り離された対立関係として定立される近代の思考を、
実践の中で超えてゆく行為である。
1925年生まれ。東京大学文学部卒。
その人間のもつ疾病に興味をもつことよりも、
その病む人間がどのような人間かに興味をもつことのほうが重要である
フロイトは大人のこころに幼児を発見したが、クラインは子どものこころに幼児を発見した
愛を向けると憎しみが起こる
1897年7月16日 - 1968年10月5日 日本の医学者、精神科医。
罪をうやむやにすることは罪悪感を救わない。
罪の事実と罪悪感をしっかりと自分に引き受けてはじめて、
奇跡的な心的解放が起こりうるのだ
1959年生まれ。東京都済生会中央病院精神神経科医師。
ロイ・シェーファー(精神分析学者)の解釈