文化防衛論
「あとにつづく者あるを信ず」の思想こそ、「よりよき未来社会」の思想に
真に論理的に対立するものである。
いったい何が正義なのかという問題になりますと、
核兵器から遠いものほど正義になっているんですな。
力が弱ければ正義量が増すんですから。
男よりも女のほうが正義なんだ。女は男よりも弱いですからね。
子供は女よりも弱いですから、子供は女よりも正義量が高いんですね。
そうすると、世論を支配するものは、いつも正義量の高いものだから、
女子供の理論で支配される。
学生運動を簡単にいうと、内面的には女子供のロジックにすぎず、
目標がなくてもかまわない、現状変革すればいいんだ。
目標がなくてもかまわない、現状変革すればいいんだ。
こんな私にだれがしたとでもいいましょうか。
何者かがこうさせてしまったのです。
私もこんなにはなりたくなかった。
しかし私は歴史的条件の中に置かれた人間の判断、あるいは選択というものはそういうふうになっていくものだと思う。
私はそれに対して、お人好しだから自分の心の命ずるままにそこについている。
私はそれに対して、お人好しだから自分の心の命ずるままにそこについている。
たとえば暗殺が全然なかったら、政治家はどんなに不真面目になるか、
殺される心配がなかったら、いくらでも嘘がつける。
われわれが「文化を守る」というときに想像するものは、
博物館的な死んだ文化と、天下泰平の死んだ生活との二つである。
われわれの考える天皇とは、いかなる政治権力の象徴でもなく、
それは一つの鏡のように、日本の文化の全体性と、連続性を映し出すものである
われわれは天皇ということをいうときにには、
むしろ国民が天皇を根拠にすることが反時代的であるというような時代思潮を知りつつ、まさにその時代思潮の故に天皇を支持するのである。
むしろ国民が天皇を根拠にすることが反時代的であるというような時代思潮を知りつつ、まさにその時代思潮の故に天皇を支持するのである。
われわれは強者の立場をとり、少数者から出発する。
日本精神の清明、闊達、正直、道義的な高さはわれわれのものである。
再び、有効性は問題ではない。
なぜなら
日本精神の清明、闊達、正直、道義的な高さはわれわれのものである。
再び、有効性は問題ではない。
なぜなら
われわれは、われわれの存在ならびに行動を、未来への過程とは考えない
(注)
「強者」は、学生の革命運動等を数を頼んだ弱者の群れとしてのこと。
「再び」とは特攻隊への評価に重ねての表現。
「強者」は、学生の革命運動等を数を頼んだ弱者の群れとしてのこと。
「再び」とは特攻隊への評価に重ねての表現。
われわれは戦後の革命思想が、
すべて弱者の集団原理によって動いてきたことを洞察した。
それは集団と組織の原理を離れえぬ弱者の思想である。
不安、懐疑、嫌悪、憎悪、嫉妬を撒きちらし、
これを恫喝の材料に使い、これら弱者の最低の情念を共通項として、
一定の政治目的に振り向けた集団運動である。
そこでは、文化とは何か無害で美しい、人類の共有財産であり、プラザの噴水の如きものである。
フラグメントと化した人間をそのまま表現するあらゆる芸術は、
いかに陰惨な題材を扱おうとも、その断片化自体によって救われて、
プラザの噴水になってしまう。
われわれは単なるフラグメントだと思ってわれわれ自身に安心する。
ヴェトナム戦争への感傷的人道主義的同情は、
民族主義とインターナショナリズムの癒着を無意識のうちに醸成し、
反政府的感情とこれが結合して、一つの類推を成立させた。
類推とは、他民族の自立感情に対する感情移入を以て、
自民族の自立感情のフラストレーションの解決をはかるという代償行為である。
人間は、強くてきたないということは許せないんだよ、だいたいね。
弱いものであるがゆえに、弱さがきたなさを正当化することもあるんだ。
人間はどうせダメだと思うと、非常に理想が観念的になるわな。
どうせダメだと思う人間の思っているユートピアは恐ろしいよ。
ロバート・ケネディの一面が気に入らないから殺すというようなお話があったが、政治的暗殺の本質は、一面が気に入らないから殺すのじゃない。
例えば、あの人は実にいい人だ。人柄はいいし、とても好きだ、しかしあの人の政治思想が日本のために許せない、あるいはアメリカのために許せないから殺すという場合には、その人の一面じゃなくて、その人の思想を殺そうとするわけですね。
ところが、思想ないし政治思想というものにその人間は全身をかけて行動していて、その人間の行動の表象がそこに表れてくるのだから、その人間を殺すということは、ただ一面が気に入らんということじゃなくて、その人間を全部抹殺することですね。
そして
例えば、あの人は実にいい人だ。人柄はいいし、とても好きだ、しかしあの人の政治思想が日本のために許せない、あるいはアメリカのために許せないから殺すという場合には、その人の一面じゃなくて、その人の思想を殺そうとするわけですね。
ところが、思想ないし政治思想というものにその人間は全身をかけて行動していて、その人間の行動の表象がそこに表れてくるのだから、その人間を殺すということは、ただ一面が気に入らんということじゃなくて、その人間を全部抹殺することですね。
そして
人間は悲しいことに、他人の思想を抹殺する方法としては、殺すことしかまだ知らなかった。
どんなことをしても、これしかできない。
これは私は人間というものの悲しさだと思うのです。
つまり、自分の気に入らないやつの意見をなんとかして抹殺したい。
我々誰しもそう思うのです。
つまり、自分の気に入らないやつの意見をなんとかして抹殺したい。
我々誰しもそう思うのです。
我々は国家や組織の論理ではなく、「魂の論理」に忠実でなければならない。
Liberty of thought is the life of the soul.
思想の自由は、魂そのものである。
(ヴォルテール) - 名言録
何もここで諸君と殴り合う必要はないのだ。
だけどもその底の底の底には、許し合わないものは対決しなきゃならん、
殺す覚悟で話さなきゃならんという信念がなければ、その人は力がない。
初めから妥協を考えるような決意というものは本物の決意ではないのです。
例えば戦争をしておっても、誰も妥協を考えてやるのではないのです。
勝つことが目的であって、最終目的に対して、十とれるところが八だとか、八とれるつもりがまあ五だろうというのが妥協であります。
初めから五を考えると、二しかとれません。
勝つことが目的であって、最終目的に対して、十とれるところが八だとか、八とれるつもりがまあ五だろうというのが妥協であります。
初めから五を考えると、二しかとれません。
力が倫理的に否定されると、
次には力そのものの無効性を証明する必要にかられるのは、
実は恐怖の演ずる一連の心理的プロセスに他ならない。
国際政治を支配しているのは、姑息な力の法則であって、
その法則の上では力を否定するものは、
最終的にみずから国家を否定するほかはないのである。
平和勢力と称されるものは、日本の国家観の曖昧模糊たる自信喪失をねらって、日本自身の国家否定と、暴力否定とを次第次第につなげようと意図している。
守るという行為には、かくて必ず危険がつきまとい、
自己を守るのにすら自己放棄が必須になる。
平和を守るにはつねに暴力の用意が必要であり、守る対象と守る行為との間には、永遠のパラドックスが存在するのである。
常に抑圧者の側がヒステリカルな偽善の役割を演ずることは、
戦時中も現在も変わりない。
現代では、「菊と刀」の「刀」が絶たれた結果、日本文化の特質の一つでもある、際限もないエモーショナルなだらしなさが現れており、
戦時中は、「菊」が絶たれた結果、別の方向に欺瞞と偽善が生じたのであった。
戦時中は、「菊」が絶たれた結果、別の方向に欺瞞と偽善が生じたのであった。
戦いはただ一回であるべきであり、生死を賭けた戦いでなくてはならぬ。
生死を賭けた戦いのあとに、判定をくだすものは歴史であり、
精神の価値であり、道義性である。
技術社会の進展が、技術の自己目的による
オートマティックな一人歩きをはじめる傾向に対抗して、
国家はこのような自己内部の技術社会のオートマティズムを制御するために、
イデオロギーを強化せねばならぬ傾向にある。
社会主義インターナショナルは単に多数民族、強力民族が少数民族をみずからの手中におさめるための口実として使われているにすぎない。
政治の本質は殺すことだ。
シーザーの昔からそうじゃないか。
民主主義というものは最終的にああいう形(ケネディ暗殺)になってしまうのが正直な形で、それがいけないとか、いいとかいう問題じゃない
民主主義というものは最終的にああいう形(ケネディ暗殺)になってしまうのが正直な形で、それがいけないとか、いいとかいう問題じゃない
文化の再帰性とは、文化がただ「見られる」ものではなくて、
「見る」者として見返してくる、という認識に他ならない。
これこそが伝統と人の呼ぶところのものである
文化を全面的に容認する政体は可能かという問題は、ほとんど、
エロティシズムを全面的に容認する政体は可能かという問題に接近している。
そもそも文化の全体性とは、左右あらゆる形態の全体主義との完全な対立概念であるが、ここには詩と政治とのもっとも古い対立がひそんでいる。
文学においては、自己を弱者と規定すると、とってもやりやすくなるんだよ。
やりやすくなるということがぼくはきらいで、いままで二十何年ムリをしてきたんです。
自らを最後の者とした行動原理こそ、神風特攻隊の行動原理であり、
特攻隊員は「あとにつづく者あるを信ず」という遺書をのこした。