文化防衛論
言論の自由を保障する政体として、現在、われわれは複数政党制による
議会主義的民主主義より以上のものを持っていない。
言論の自由は、人間性と政治との相互妥協の境界線にすぎぬ
言論の底には血がにじんでいる。
そして、それを忘れた言論はすぐ偽善と嘘に堕する
経済的繁栄の結果として得られた現状維持の思想は、一人一人の心の中に浸み込んで、
自分の家族、自分の家を守るためならば、どのようなイデオロギーも当面は容認する、
という方向に向かっている。
人々はつねられなければ痛さを感じないものである。
私は民主主義と暗殺はつきもので、共産主義と粛正はつきものだと思っております。
私はテレビジョンでごく若い人たちと話した際、
非武装平和を主張するその一人が、
日本は非武装平和に徹して、侵入する外敵に対しては
一切抵抗せずに皆殺しにされてもよく、
それによって世界史に平和憲法の理想が生かされればよいと主張するのをきいて、
これがそのまま、戦時中の一億玉砕思想に直結することに興味を抱いた。
一見真逆なような思想は、ひっついて離れない表と裏 芯が通ってる人の意見は勝手にそうなるのかねぇ - 銘無き石碑
暴力は暴力自体が悪でもあり、善なのでもない。
それは暴力を規定する見地によって善にもなり、悪にもなるのである。
暴力と素手で立ち向かうことができないのは理性の特質であり、
そしてまた理性を何らかの後楯にしない時は、自己の正当性をみずから確認できないということは暴力の特質である。
そしてまた理性を何らかの後楯にしない時は、自己の正当性をみずから確認できないということは暴力の特質である。
暴力と理性とは、お互いにその正当性を奪い合う段階においてこそ同格であるが、
暴力は一つの理性的思想を持っていると主張することによって、
すなわち理性だけよりも強い
暗殺の方法にもより、また暗殺者の覚悟にもよるのですが、
暗殺を非難するのはやさしいが、皆さん暗殺できますか?
日本文化は、本来オリジナルとコピーの弁別を持たぬことである。
西欧ではものとしての文化は主として石で作られているが、
日本のそれは木で作られている。
日本の近代文化人の肉体鍛錬の不足と、
病気と薬品のみを通じて肉体に関心を持つ傾向は、
日本文学を痩せさせ、その題材と視野を限定した。
私は、明治以来のいわゆる純文学に、剣道の場面が一つもあらわれないことを奇異に感じる。
いかに多くの蒼ざめた不健全な肉体の登場人物が、あたかも餓鬼草子のように、近代文学に跋扈していることであろう。
いかに多くの蒼ざめた不健全な肉体の登場人物が、あたかも餓鬼草子のように、近代文学に跋扈していることであろう。
日本で言論と称されているものは、あれは暴力。
何千万人相手にしても、俺一人だというのが言論だと思うのです。
一人の人間を多勢で寄ってたかってぶち壊すのは、言論ではなくて、そういうものを暴力という。
一人の人間を多勢で寄ってたかってぶち壊すのは、言論ではなくて、そういうものを暴力という。
文学においては、自己を弱者と規定すると、とってもやりやすくなるんだよ。
やりやすくなるということがぼくはきらいで、いままで二十何年ムリをしてきたんです。
文化を全面的に容認する政体は可能かという問題は、ほとんど、
エロティシズムを全面的に容認する政体は可能かという問題に接近している。
そもそも文化の全体性とは、左右あらゆる形態の全体主義との完全な対立概念であるが、ここには詩と政治とのもっとも古い対立がひそんでいる。
文化の再帰性とは、文化がただ「見られる」ものではなくて、
「見る」者として見返してくる、という認識に他ならない。
これこそが伝統と人の呼ぶところのものである
政治の本質は殺すことだ。
シーザーの昔からそうじゃないか。
民主主義というものは最終的にああいう形(ケネディ暗殺)になってしまうのが正直な形で、それがいけないとか、いいとかいう問題じゃない
民主主義というものは最終的にああいう形(ケネディ暗殺)になってしまうのが正直な形で、それがいけないとか、いいとかいう問題じゃない
技術社会の進展が、技術の自己目的による
オートマティックな一人歩きをはじめる傾向に対抗して、
国家はこのような自己内部の技術社会のオートマティズムを制御するために、
イデオロギーを強化せねばならぬ傾向にある。
社会主義インターナショナルは単に多数民族、強力民族が少数民族をみずからの手中におさめるための口実として使われているにすぎない。
戦いはただ一回であるべきであり、生死を賭けた戦いでなくてはならぬ。
生死を賭けた戦いのあとに、判定をくだすものは歴史であり、
精神の価値であり、道義性である。
常に抑圧者の側がヒステリカルな偽善の役割を演ずることは、
戦時中も現在も変わりない。
現代では、「菊と刀」の「刀」が絶たれた結果、日本文化の特質の一つでもある、際限もないエモーショナルなだらしなさが現れており、
戦時中は、「菊」が絶たれた結果、別の方向に欺瞞と偽善が生じたのであった。
戦時中は、「菊」が絶たれた結果、別の方向に欺瞞と偽善が生じたのであった。
守るという行為には、かくて必ず危険がつきまとい、
自己を守るのにすら自己放棄が必須になる。
平和を守るにはつねに暴力の用意が必要であり、守る対象と守る行為との間には、永遠のパラドックスが存在するのである。
国際政治を支配しているのは、姑息な力の法則であって、
その法則の上では力を否定するものは、
最終的にみずから国家を否定するほかはないのである。
平和勢力と称されるものは、日本の国家観の曖昧模糊たる自信喪失をねらって、日本自身の国家否定と、暴力否定とを次第次第につなげようと意図している。
力が倫理的に否定されると、
次には力そのものの無効性を証明する必要にかられるのは、
実は恐怖の演ずる一連の心理的プロセスに他ならない。
初めから妥協を考えるような決意というものは本物の決意ではないのです。
例えば戦争をしておっても、誰も妥協を考えてやるのではないのです。
勝つことが目的であって、最終目的に対して、十とれるところが八だとか、八とれるつもりがまあ五だろうというのが妥協であります。
初めから五を考えると、二しかとれません。
勝つことが目的であって、最終目的に対して、十とれるところが八だとか、八とれるつもりがまあ五だろうというのが妥協であります。
初めから五を考えると、二しかとれません。
何もここで諸君と殴り合う必要はないのだ。
だけどもその底の底の底には、許し合わないものは対決しなきゃならん、
殺す覚悟で話さなきゃならんという信念がなければ、その人は力がない。
ロバート・ケネディの一面が気に入らないから殺すというようなお話があったが、政治的暗殺の本質は、一面が気に入らないから殺すのじゃない。
例えば、あの人は実にいい人だ。人柄はいいし、とても好きだ、しかしあの人の政治思想が日本のために許せない、あるいはアメリカのために許せないから殺すという場合には、その人の一面じゃなくて、その人の思想を殺そうとするわけですね。
ところが、思想ないし政治思想というものにその人間は全身をかけて行動していて、その人間の行動の表象がそこに表れてくるのだから、その人間を殺すということは、ただ一面が気に入らんということじゃなくて、その人間を全部抹殺することですね。
そして
例えば、あの人は実にいい人だ。人柄はいいし、とても好きだ、しかしあの人の政治思想が日本のために許せない、あるいはアメリカのために許せないから殺すという場合には、その人の一面じゃなくて、その人の思想を殺そうとするわけですね。
ところが、思想ないし政治思想というものにその人間は全身をかけて行動していて、その人間の行動の表象がそこに表れてくるのだから、その人間を殺すということは、ただ一面が気に入らんということじゃなくて、その人間を全部抹殺することですね。
そして
人間は悲しいことに、他人の思想を抹殺する方法としては、殺すことしかまだ知らなかった。
どんなことをしても、これしかできない。
これは私は人間というものの悲しさだと思うのです。
つまり、自分の気に入らないやつの意見をなんとかして抹殺したい。
我々誰しもそう思うのです。
つまり、自分の気に入らないやつの意見をなんとかして抹殺したい。
我々誰しもそう思うのです。
我々は国家や組織の論理ではなく、「魂の論理」に忠実でなければならない。
Liberty of thought is the life of the soul.
思想の自由は、魂そのものである。
(ヴォルテール) - 名言録