社会
まれに見る異才は、国家が太平を楽しんでいる限り、
とかく粗末に扱われがちなものであったし、将来に渡って無視されることもあろう。
なぜなら、彼の才能であれば当然入るはずの名誉を、
太平の世に生きる民衆は嫉妬のあまり潰してしまうからだ。
しかも、こうした民衆と同程度の者たちだけでなく、
平凡よりは上の才能を具えているはずの者たちまでもが、出る杭を打ってしまう。
ニッコロ・マキャヴェッリ
94
イタリア、ルネサンス期の政治思想家、フィレンツェ共和国の外交官。 著書に『君主...-ウィキペディア
生涯そいつが生活していく場所を全部奪って取ってしまうということを
社会は実際にやります。
支配的な経済力を持っているというのは、すごいものだなと思います。
異を唱えることができないというところまで徹底的にやりますからね。
文化の事業は、いいことをしているつもりでやっているんですよ。
あいつに悪い待遇をした覚えはないというふうに、いつでも言えるようなやり方です。
決して悪いことをしたって、どこにも欠陥があることをした覚えはないって、
いつでも言えるようにできてます。
テレビだって、危なっかしいもので、
ほとんどなにもしてないのと同じじゃないか、と思えることもあります。
事業をしてるとも、ちょっと言いにくいんじゃないでしょうか。
今の年寄りは、体のほうだけ成長というか、老いていって、
寿命は延びていって、
精神のほうは成長しないです。
どういう目の使い方をすればいいかというと、それは、
「中流の中以下の人が、どういうふうになってるかな、どう考えてるかな」
ということだと思います。
それが、その「とき」を本格的に観察し、解明する場合に、
機能的にいちばんいいと考えています。
人事問題から、経済問題まで、すべてがそうです。
真ん中を「含んだ下」です。
「“中”以下の人がこれからどうなっていくか」を、
ひとつ、主眼にして、
生きてる今を考え、
それを広げて自分のやってることに関連づけるんです。
そこになんだか、ほんとうのことが隠れているような気がするんです。
自分の専門としていることに、
自分は影響されていないと思っているかもしれないけど、
それは大嘘です。
何かをやって、それが自分のものになっていたら、
その人は必ずそういう人間になっている。
それは美点としても弱点としても自分はそういうのになっているよ、ということです。
だからむしろ、「ただの人間」というのに自分を直さないと、
いつの間にかへんてこりんなことになっちゃう。
何も知識の専門家だけを、
「専門家だ、あの人は」と言う必要もありません。
だけど、知識の専門家はテレビに出てよくしゃべって、
「すごいな」と思われる機会も多いでしょう。
先生だけじゃなくて、社会的にうんと偉い人というのは、
いじめについて、そんなによくわかっているわけじゃないと思います。
だいたい政治だって外国をいじめるのに一役買っているわけだし、
国自体がそういうことをしてるから子どももそうなってきたんだ、
という理屈までくっつけて言わないと、話にならないんです。
いまみたいに、変なところでもって法律が介入してきちゃうことは、
やっぱりよくないことだと思います。
法律というのは、いちばん最後に、仕方がないから法律の問題になったとか、
そういうことじゃないと、意味がないです。
凶悪犯罪をしたから凶悪な男だとか、
そういうふうにはちっとも思えないし、
また逆に、
自分がいつ凶悪犯になるか、
それもわからないですよ。
ほんの少しでも国法に触れた者、
または国法に触れたと疑われている者を、
人でなしの、人間の風上にもおけぬものみたいに取り扱って恥じない。
リンチ機械としてのテレビ。
私が皆さんに真実を語ることに、腹を立てないでください。
というのは、真実は次のようだからです。
つまり、国家によってなされる多くの不当で不正な行為に、誠実に対抗して、
皆さんやその他の群衆と戦おうとする者は誰もその寿命を全うしないでしょう。
生き長らえたければ、そのような立場には立つべきではないのです。
日本の天皇制というのは、
アジアの極東地区の辺境国家に見られる「生き神様信仰」の一つなんです。
「生き神様信仰」は、チベット、ネパール、
東南アジア、オセアニアなどにも見られます。
多様性を縦軸に、包摂性を横軸にとった、座標平面を作ってみよう。
その中で一番いい場所はどこか。
浜矩子
5
(1952~) 日本の経済学者。 同志社大学教授。
先進国の本当の課題は、
近代以降命脈を保ってきた民族主義を、
いつどうやって死なせたらいいのか、ということだ。
価値観が錯綜する現代は、
まとまった民意などあり得ません。
グローバル化の影響も大きい。
競争社会が激化し、共助や連帯、調整といった価値が衰退。
合理的に見える成果主義、能力主義の裏側に、
一度の失敗で無能扱いされてしまう人が大勢いる。
佐伯啓思
1
(1949~) 日本の経済学者。 大学院教授。 文部科学省中央教育審議会委...
経済が急成長している最中は、
様々な社会集団が同時に利益の恩恵を享受しています。
この意味で、様々な社会集団が得られる利益は実質的に一致しています。
それでも、経済危機が発生した時に、どの社会集団に属しているかによって、
境遇にかなり激しい格差が生じるのです。
社会は、経済が上昇気流に乗り続けている時には連帯していても、
下降時には分裂しながら落ちてゆきます。
アマルティア・セン
5
(1933年~) インド出身の経済学者。 アジア人としては初のノーベル経済学...
市場が生み出す経済的インセンティブに集中して、
民主主義によって保障される政治的インセンティブを無視すると、
非常に不安定な基本原則を選択することになります。
アマルティア・セン
5
(1933年~) インド出身の経済学者。 アジア人としては初のノーベル経済学...
日本は明らかに高すぎるハードルを設定している。
思想信条の自由を制約しようとするかのような政治・行政行動もみられる。
成果主義的な切り捨ても、包摂性とは逆行するベクトルだ。
浜矩子
5
(1952~) 日本の経済学者。 同志社大学教授。
実際、人々はそれぞれの健康状態、年齢、風土の状態、地域差、労働条件、気質、
さらには(衣食住の必要量に影響を及ぼすという点で)体格、
などの違いに伴って、各人各様に変化するニーズをもっているのであるから、
少数の難しい事例を無視しているところと、
人々の間できわめて広く見られる種々の相違を考察対象から見落としているところに、
格差原理の問題点がある。
アマルティア・セン
5
(1933年~) インド出身の経済学者。 アジア人としては初のノーベル経済学...
たとえ効用が重要度の唯一の基礎であると認めたとしても、
ある人が享受している効用の総量と関係なく決められる限界効用の大きさが
道徳的重要度の指標として適切なものであるかどうかは、
依然として問題になる。
アマルティア・セン
5
(1933年~) インド出身の経済学者。 アジア人としては初のノーベル経済学...
純粋な経済人は、事実、社会的には愚者に近い。
しかしこれまで経済理論は、
そのような単一の万能の選好順序の後光を背負った
合理的な愚か者に占領され続けてきたのである。
アマルティア・セン
5
(1933年~) インド出身の経済学者。 アジア人としては初のノーベル経済学...
江戸の長屋には、
教養人もいれば、与太郎も住んでいた。
与太郎だからといって排除されることはなかった。
偉い先生が特別扱いされることもなかった。
浜矩子
5
(1952~) 日本の経済学者。 同志社大学教授。
訳者によって、異才のところは、大器や大人物とも訳されている。
また、才能のところは、徳や力量とも訳されている。