ルネサンスとは何であったのか
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歴史は娯楽だ
塩野七生 『ルネサンスとは何であったのか』(新潮文庫,2008)335p
「第四部 ヴェネツィアで考える」
レオナルド・ダ・ヴィンチの書き遺した文章に至っては、
その多くが、キミという呼びかけを使って書かれている。
レオナルドが言った「キミ」にならないで、何でレオナルドが理解できるのでしょう。
塩野七生 『ルネサンスとは何であったのか』(新潮文庫,2008)240p
「第四部 ヴェネツィアで考える」
文化の創造とは、いかに優れた資質に恵まれていても、純粋培養ではできないのです。
塩野七生 『ルネサンスとは何であったのか』(新潮文庫,2008)235p
「第二部 ローマで考える」
実作者が実作者に捧げる賛辞の最高は、
やれやれ死んでくれていてよかった、なのですよ
塩野七生 『ルネサンスとは何であったのか』(新潮文庫,2008)180p
「第二部 ローマで考える」
ローマを訪れて描いた文の一部
ローマを訪れて描いた文の一部
――今朝はすこぶる気分がよい。
なぜなら昨日、ミケランジェロはすでに死んだ人であると知ったからだ――
塩野七生 『ルネサンスとは何であったのか』(新潮文庫,2008)179p
マーク・トウェイン
45
アメリカ合衆国の作家、小説家。ミズーリ州出身。『トム・ソーヤーの冒険』の著者とし...-ウィキペディア
「第二部 ローマで考える」
レオナルドはどこにいようとレオナルドであれたと思うけど、
ミケランジェロは、ローマにいたからこそミケランジェロに成りえた
塩野七生 『ルネサンスとは何であったのか』(新潮文庫,2008)178p
「第二部 ローマで考える」
おとなしく注文をこなしているだけならば、「アルティジャーノ」(職人)でしかない。
「アルティスタ」(芸術家)は、
注文を逆手に使って自分の創りたいものを創り出す人のことです。
塩野七生 『ルネサンスとは何であったのか』(新潮文庫,2008)151p
「第二部 ローマで考える」
庶民とはなぜか、自分たちには手のとどかない贅沢を好む。憧れるとしてもよい。
塩野七生 『ルネサンスとは何であったのか』(新潮文庫,2008)150p
「第二部 ローマで考える」
キリスト教会くらい、時代の流れに柔軟に対応してきた組織もないのですよ。
塩野七生 『ルネサンスとは何であったのか』(新潮文庫,2008)149p
「第一部 フィレンツェで考える」
日本語の一語に換えれば、おのれにうち勝つという意味で、克己、でしょうか。
日本語の一語に換えれば、おのれにうち勝つという意味で、克己、でしょうか。
人間は、自分自身を支配する力よりも
大きな支配力も小さな支配力も、もつことはできない存在である
塩野七生 『ルネサンスとは何であったのか』(新潮文庫,2008)142p
レオナルド・ダ・ヴィンチ
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イタリアのルネサンス期を代表する芸術家。フルネームはレオナルド・ディ・セル・ピエ...-ウィキペディア
「第一部 フィレンツェで考える」
完成とは、あるところまではやったが
それ以上のことはあきらめたから、できることでもあるんですよ
塩野七生 『ルネサンスとは何であったのか』(新潮文庫,2008)134p
「第一部 フィレンツェで考える」
観念論は、別の観念論で向ってこられると、以外に弱いものなのですよ。
塩野七生 『ルネサンスとは何であったのか』(新潮文庫,2008)125p
「第一部 フィレンツェで考える」
宗教とは信ずることであり、哲学は疑うことです。
塩野七生 『ルネサンスとは何であったのか』(新潮文庫,2008)123p
「第一部 フィレンツェで考える」
人間とは、あらゆる現象を説明できる原理の探求には常に魅了されるものなのですね。
塩野七生 『ルネサンスとは何であったのか』(新潮文庫,2008)122p
「第一部 フィレンツェで考える」
精神運動とは、
それがルネサンスであれ何であれ、世の中が激しく動いている時代に生れるものです。
政治の成熟とは、
これとは反対に、世の中が落ちつくことを目的にしそれを実現することにある。
塩野七生 『ルネサンスとは何であったのか』(新潮文庫,2008)91p
「第一部 フィレンツェで考える」
言論の自由とは、
ただ単に言論を職業にしている者に対してのみ意味をもつものではない。
他のあらゆる自由の「母」でもあるのです。
塩野七生 『ルネサンスとは何であったのか』(新潮文庫,2008)82p
「第一部 フィレンツェで考える」
言語には、他者への伝達の手段としてだけではなく、
言語を使って表現していく過程で自然に生れる、
自分自身の思考を明快にするという働きもある。
塩野七生 『ルネサンスとは何であったのか』(新潮文庫,2008)77p
「第一部 フィレンツェで考える」
人間とは、見たくないと思っているうちに実際に見えなくなり、
考えたくないと思いつづけていると実際に考えなくなるものなのです。
塩野七生 『ルネサンスとは何であったのか』(新潮文庫,2008)75p
「第一部 フィレンツェで考える」
時代の区分とは、ある時点で線を引いて、
ここまでは中世でこれより後は近代、と断定できるものではないのです。
塩野七生 『ルネサンスとは何であったのか』(新潮文庫,2008)66p
「第一部 フィレンツェで考える」
敵対関係がつづけばつづくほど、当初は手段であったものが目的と化してしまう。
塩野七生 『ルネサンスとは何であったのか』(新潮文庫,2008)60p
「第一部 フィレンツェで考える」
見たい、知りたい、わかりたいという欲望の爆発が、
後世の人々によってルネサンスと名づけられることになる、精神運動の本質でした
塩野七生 『ルネサンスとは何であったのか』(新潮文庫,2008)14p
「読者に」
ウフィッツィ美術館にて
ウフィッツィ美術館にて
はじめて見る芸術作品の傑作の数々を前にして、
私は、感動するよりも何よりも、存在しうるかぎりの神々に誓った。
死んでも作品の解説はしない、と。
塩野七生 『ルネサンスとは何であったのか』(新潮文庫,2008)10p
小林秀雄「歴史は神話である」