魯迅 23

1881年9月25日 - 1936年10月19日
中華民国の小説家、翻訳家、思想家である。本名は周樹人(繁体字: 周樹人; 簡体字: 周树人; ピン音: Zhōu Shùrén; ウェード式: Chou Shu-jen)で、字は豫才。浙江省紹興市の士大夫の家系に生まれた。父は周鳳儀...-ウィキペディア

  • 23件を表示

造物主に非難すべき所があるとしたら、
神があまりに無造作に生命を作り、あまりに無造作に生命を壊す点だろう

「兎と猫」より

青年時代には、不満があっても悲観してはいけない。いばらの道を踏まねばならない場合には踏むのもよいが、踏まずにすむものなら、それに越したことはない

「且介亭雑文」より

偉人が化石になり、人々が彼を偉人だと称讃するときになると、彼は傀儡になっているのだ。ある種の人々が、偉人だとか小人物だとかいうのは、自己のために利用できる効果の濃淡について言っているのだ

「草蓋集続編ー花なきバラ」より

「文芸は革命の先駆だ」といいたがるが、
まず軍隊があってこそ革命はできるので、およそ革命の行われたところは、
いつも軍隊が真っ先にやってきたのだ。

「而己集」より

女の天性には母性と娘性があって、妻性はない。妻性は無理に作られたもので、母性と娘性との混合でしかない

「而己集」より

「父母の命、媒酌の言」による旧式結婚式・・・
のもとでは、男は永遠かつ終身の生きた財産を獲得する。彼女には値段を交渉する自由もない

「准風月談」より
広告

「個人的自負」とは独特ということであり、俗衆への宣戦である
「集団自負」と「愛国的自負」は、仲間と組んで自分達と違うものをやっつけることが、少数の天才に対する宣戦である

「随感論」より

さまざまな売淫はすべて女がするが、売買は双方的だ。淫を買う男がいなければ、淫を売る娼婦はありえないはずだ

「南腔北調集」より

自己満足しない人間の多くは永遠に前進し、永遠に希望を持つ

「熱風」より

沈黙しているとき私は充実を覚える。
口を開こうとすると、忽ち空虚を感ずる。

「野草」より

隠居することも飯を食う道だ。
仮に飯を食うことが出来なければ、「隠れ」のようにも隠れきれるものではない。

広告

いわゆる思い出というものは、人を悦ばすこともできるが、時にやはり人を淋しがらせるものだ。精神の糸を過ぎ去った寂寞の日々に繋げておいたとして、いったい何の意味があるだろう。逆に、それらをすべて忘れ去れないことが辛いのだ。

『吶喊』自序

    MEMORIESですね。 いや、そのネタですか。 - DQN伝

裕福な状態から、生活が苦しい状態へ墜ちていく人があるとすれば、その人はその途中で大てい、世の人の真の姿を見ることができると思う

『吶喊』自序より

一般に愚弱な国民は、たとえ体が如何に健康でたくましくとも、まったく無意味な見せしめの材料と観客になるのみだ。

『吶喊』自序より

    チュウ王 - 銘無き石碑

墨で書かれた虚言は、血で書かれた事実を隠すことはできない。

『魯迅評論集』(竹内好編訳・岩波文庫版30頁)

自分で盗賊だと名乗るものは、用心する必要がない。
裏をかえせば善人だから。
自分で正人君子だと名乗るものは、用心しなければならぬ。
裏をかえせば盗賊だから。

『魯迅評論集』(竹内好編訳・岩波文庫版101頁)

世間の人は、サーベルは軍人を指揮するものだと思っている。
それが文人も指揮できることには気がついていない。

『魯迅評論集』(竹内好編訳・岩波文庫版100頁)

懐のあたたかい賢人は、どれもこれも、まるで昨日死んだようだ。
懐のさむい愚者は、どれもこれも、ほんとに昨日死んでいる。

『魯迅評論集』(竹内好編訳・岩波文庫版100頁)

予言者、すなわち先覚者は、つねに故国に容れられず、
また同時代人からも迫害を受ける。
大人物もつねにそうだ。かれが人々から尊敬され、礼賛されるときは、
かならず死んでいるか、沈黙しているか、
それとも眼前にいないかである。

『魯迅評論集』(竹内好編訳・岩波文庫版21頁)

人々が寂寥を感じたとき、創作がうまれる。
空漠を感じては創作はうまれない。
愛するものがもう何もないからだ。
所詮、創作は愛にもとづく。

『魯迅評論集』(竹内好編訳・岩波文庫版102頁)

他人の歯や眼を傷つけながら、報復に反対し、寛容を主張する、
そういう人間には絶対に近づくな。

『魯迅評論集』(竹内好編訳・岩波文庫版137頁)

奴隷が主人になると、「旦那様」という呼び方を決して廃止しません。
いばり方はたぶん主人よりももっと完璧で、もっと滑稽でありましょう。

『魯迅評論集』(竹内好編訳・岩波文庫版208頁)

歩く人が多くなればそれが道になるのだ