ラ・ロシュフコー 138

フランスの有力貴族の名称である。...-ウィキペディア

人が不正を非難するのは、そのことを増悪するからではなく、
むしろ、自分がその害をこうむりたくないからである。

「箴言集」より

正義の愛は、大部分の人々においては、不正な目に合うことを怖れる心である。

「箴言集」より

たいていの人々は小さな義理を返したがる。
多くの人たちが、中くらいの義理に対しては感謝の念をいだくが、
大きな恩恵に対しては、恩知らずの振る舞いに出ない人はまずいない。

「箴言集」より

われわれの後悔は、われわれが行った悪を遺憾に思う心であるというよりはむしろ、
それがやがてわが身にふりかかりはしないか、とあやぶむ心である。

「箴言集」より

心の裡を打ち明けるのは虚栄のため、しゃべりたいため、
他人の信頼を惹きつけたいため、親密の交換をしたいためである。

「箴言集」より

王侯の寛容は、人民の忠誠を勝ち取るひとつの政略にすぎない

「箴言集」より
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罪悪でありながら、その輝きや、その数や、その極度のために無罪となるものがある。
それのみか、栄誉となるものすらある。
だからこそ、公の盗みが有能とたたえられ、無法に諸州を奪うことが征服と称される。

「箴言集」より

相手の張った縄にいかにもはまりこんだような様子を見せるのが、最もたる策略である。
相手をだまそうと考えるときほど、まんまとだまされることはない。

「箴言集」より

善良な裁判官における正儀は称賛の愛にすぎず、
野心のある裁判官の正儀は昇進の愛にすぎない。

「箴言集」より

社交においては、われわれの優れた特性によってよりも、
われわれの欠点によって気に入られることのほうが、かえって多い。

「箴言集」より

人間は互いにだまされ合っているのでなければ、
社会生活を持続していく事は出来ない。

「箴言集」より
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つきあいには親切心が無くてはならぬ。
ただし、それには限度が必要である。度を超えれば、親切心は屈従となる。
少なくとも物事にこだわらない親切心が必要である。

「箴言集」より

適当に語るには多くの技巧を要するにしても、黙っているのにも、それ以上の技巧が必要である。

「箴言集」より

声の調子や目つきや姿のうちにも、取捨選択したことばにおけるのと劣らない雄弁がある。

「箴言集」より

沈黙は、自己に信用のもてない人には最も確実な才策である。

「箴言集」より

われわれは、われわれと同意見の人でなければ分別ある人とはまず言わない。

「箴言集」より

相手方の言い訳を聞いてやろう、という気持ちが無くなったら、もうその人の負けである。

「箴言集」より

なんらかの行為がいかにしめざましく見えても、偉大な計画の結果でないかぎり、
それを偉大なものとは見てはならない。

「箴言集」より

われわれの才能より下の職について大人物に見えることはあるが、
われわれの力以上の職に就くと、徐々にして彼が小人物に見える。

「箴言集」より

信頼こそ才知よりも交際を深める。

交際には才知よりも信頼のほうが大切である。「箴言集」より

われわれ自身がいだいている自信が、他人に対する信用を芽生えさす。

「箴言集」より

へつらいは、われわれに虚栄がなければ通用しない贋金である。

「箴言集」より

自愛こそ、この世でいちばんのへつらいである。

「箴言集」より

卑下はしばしば人を従えるために用いられる、見かけ倒しの服従にすぎない。
それは、自分を高めようとして、自分を低くする高慢なからくりである。

「箴言集」より

忠告ほど気前よく人に与えるものはない。
ただし、裁判所だけは例外、無断では行われない。

「箴言集」より