ニッコロ・マキャヴェッリ 94

1469年5月3日 - 1527年6月21日
イタリア、ルネサンス期の政治思想家、フィレンツェ共和国の外交官。 著書に『君主論』、『ティトゥス・リウィウスの最初の十巻についての論考(ディスコルシ)』、『戦術論』がある。理想主義的な思想の強いルネサンス期に、政治は宗教・道徳から切り離して考えるべきであるという現実主義的な政治理論を創始した…-ウィキペディア

「第63章 無題」
『君主論』

他者を強力にする原因をつくる者は、自滅する。

塩野七生 『再び男たちへ』(文春文庫,1994)273p
「第63章 無題」
『手紙』
中立でいると、勝者にとって敵になるだけでなく、敗者にとっても、助けてくれなかったということで敵視されるのがオチなのだ

中立を保つことは、有効な選択とはいえない。

塩野七生 『再び男たちへ』(文春文庫,1994)274p

弱体な国家は、常に優柔不断である。
そして決断に手間どることは、これまた常に有害である。

塩野七生 『再び男たちへ』(文春文庫,1994)274p

優柔不断な国家は、
外からの圧力でもないかぎり、良き政策を打ち出せないようになっているのである

塩野七生 『再び男たちへ』(文春文庫,1994)275p
「第63章 無題」
『政略論』

人間は、百パーセント善人であることもできず、
かといって百パーセント悪人であることもできない。
だからことしばしば中途半端なことをしてしまい、
破滅につながることになってしまうのである

塩野七生 『再び男たちへ』(文春文庫,1994)276p
「第63章 無題」
『政略論』

結果さえ良ければ、手段は常に正当化される

塩野七生 『再び男たちへ』(文春文庫,1994)277p
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かつての敵のほうが、味方よりも良き味方になる場合がある

塩野七生『サイレント・マイノリティ』(新潮社,1993)264p
ラブ・ストーリー

かつての敵のほうが、味方よりも良き味方になる場合がある

塩野七生『サイレント・マイノリティ』(新潮社,1993)264p
全体主義について

自由なき政体下で生きてきた人は、
たとえ自由を与えられても、それを活用するすべを知らない

塩野七生『サイレント・マイノリティ』(新潮社,1993)278p

賢明な君主でなければ、良き助言を採用することはない。

側近が信頼できない場合や無能な場合には、
その君主に対して良い評価を下すことはできない。
というのは、その君主の第一の無能さは、
そうした側近を選んだことにあるのだから。

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留意しておくべきは、
固く決意した命がけの意地をもって加えられたる殺意からは、
君主といえども逃れる術はないということです。
なぜなら、死を恐れぬ者ならば誰でも、こういう害を加えることができるのですから。

混沌が満ちる時には、
真のヴィルトゥ(virtu)をそなえた人物が活躍する。
とはいえ、太平の時にあっては、
財の豊かな者や家柄に支えられた者が、
世の春を謳歌することになるのが宿命である。
真に優れた人物は、平時には相応しい評価を与えられないのが普通なのである。

「virtu」は一般的に、
美徳、人格、器、力量、などと訳されるが、
訳者によってどう解釈するかは異なっている。

モーゼの力量を明らかにするには、
イスラエルの民が囚われの身となることが必要であり、
キュロスの偉大な心が見出されるには、
ペルシャ人がメディア人に抑圧されることが必要であり、
テセウスの能力が示されるには、
アテナイ人が散り散りになることが必要であった。

部下を正直者にしておくためには、
彼のことをちゃんと見てやり、褒めてやり、裕福にしてやり、守護してやり、
そして名誉も苦労も彼と分かち合わなければならない。

「部下」を「使用人」と書いている資料もある

まれに見る異才は、国家が太平を楽しんでいる限り、
とかく粗末に扱われがちなものであったし、将来に渡って無視されることもあろう。
なぜなら、彼の才能であれば当然入るはずの名誉を、
太平の世に生きる民衆は嫉妬のあまり潰してしまうからだ。
しかも、こうした民衆と同程度の者たちだけでなく、
平凡よりは上の才能を具えているはずの者たちまでもが、出る杭を打ってしまう。

『リウィウス論』
訳者によって、異才のところは、大器や大人物とも訳されている。
また、才能のところは、徳や力量とも訳されている。

相手からの質問がなければ、
賢人も多くの事柄について
より深く知ることはできない。

Politics have no relation to morals.

政治は道徳とは無縁だ。

だからこそ常に腐敗する。

注意すべきは、憎しみを招く元が善行でもあることだ、悪行に劣らずに。