建築
短い木でも、2本を上手く接ぐことさえできれば、1本の巨木に優る。
棟梁。
思いつめてもしょうがないわよ、元気を出して
胃の痛いのは自分の考え方で治るんじゃないの~
鹿島建設のマドンナ姉妹の姉。角田勝馬の妻。
無能なやつほどたくさんの言葉をならべたてるものだ
歴史を知ることは、時代を変える理念を知ることでもなる。
逆を言えば、歴史意識の喪失は、理念の喪失につながっている。
1967年生まれ。工学博士。
建築は純粋な芸術でもないし、純粋な技術でもない。
時代の動きを反映した社会的な存在である。
1967年生まれ。工学博士。
住宅は天下の回りもの
1948年生まれ。静岡文化芸術大学デザイン学部空間造形学科教授。
人が住まう、そのためには建築を建て、集落を営み、都市を築く。それはどこか?
ほかでもないこの地球の上である。
1960年生まれ。工学博士。
竣工で完成とは思っていない。
そこに人が入って使われ続けるという、プロセスが連続するものが建築だと思っている。
1995年、共同設立。建築事務所
未来はプリミティブである。
そして、建築はそのプリミティブな未来に形を与えることができると思うのである。
1971年生まれ。東京理科大学非常勤講師。
「観る」とはすでに一定しているものを映すことではない。
無限に新しいものを見いだして行くことである。だから観ることは直ちに創造に連なる。
しかし、そのためにはまず純粋に観る立場に立ち得なくてはならない。
フィールドワークからなにが見えるようになるのかといえば、
フィールドにある「もの」ではなく、「モノ」を通して自分自身を発見することなのである。
1954年生まれ。日本大学理工学部建築学科助手。
普通というのがくせ者で、実は無限の普通がある。
1946年生まれ。工学博士。
建築設計の第一歩は、やはり個人の内的な表現欲の発露に置きたい。
どうしても作りたいモノがあることが一番なのだ。
1944年生まれ。建築家。
建築は断片にしか過ぎないけれど、断片としての意味は歴然として在る。
それを自覚した時に初めて、現在の建築家の存在の意味が浮上してくる。
1944年生まれ。建築家。
創造の絶対性などはあり得べくもない。あるのは創造の相対性、関係性だけなのだ。
1944年生まれ。建築家。
もし現在においても「建築家」という文化的概念が考えられるとするならば、
それは歴史家としての認識を持つ者でなければならない。
1944年生まれ。建築家。
建築は実に創造的な現実の断片である。
1944年生まれ。建築家。
現実は巨大な錯綜した森であり、個人の創造的身ぶりなどは音も立てずに呑み込んで、
アッという間にそれを現実(キッチュ)そのものを化してしまう構造を持っている。
1944年生まれ。建築家。
歴史は古びることがない。歴史は滅びることもない。
すでに古び死んでいるからだろう
1945年生まれ。工学博士。
あらゆる学問は歴史化する
その領域が勢いを失えば歴史化の速度は加速される
1945年生まれ。工学博士。
建築は時代がたっても中古品になるとは限らず、文化遺産になりうる
1945年生まれ。工学博士。
親はなくても子は育つ。学ばなくても家は建つ。
1946年生まれ。建築学博士。
あの虚構の都市が、どうしてかくも人を惹きつけるのか。
思うに、それは人間が、現実と同じ程度に虚構を必要とする生き物だからである
建築史の勉強は、つねに読んでいるか、歩いているかに尽きる
1924年6月30日 - 1997年8月29日 日本の建築史家。
一日に二時間勉強しつづければ学者になれる
1912年11月5日 - 2007年1月19日 日本の建築史家。