ジェンダー
日本の女が戦争で日本の男に守ってもらわないほうが、敵のもっと『いい男』と出会えるかもしれない
- 銘無き石碑
自然史的・人類史的に言えばマスターベーションしながら死んでいただければいいと思います。冷たいでしょうか?
男らしさを表現する装置が、「男」である必要はない
1959年生まれ。成蹊大学講師。
自分が男らしくないと悩むこと自体が男らしさの保証となる
1959年生まれ。成蹊大学講師。
服装が女性をつくり、服装が男性をつくる、衣装こそが本質である
過去の歴史において女性に許されてきたことを
あたかも女性の属性であるかのように認めることは、女性の可能性に対する侮辱である
1946年10月7日生まれ。アメリカ合衆国の弁護士。セクシャルハラスメント問題の...
女とは他者である
シモーヌ・リュシ=エルネスティーヌ=マリ=ベルトラン・ド・ボーヴォワール(Sim...-ウィキペディア
「みんな同じ人間」という、
一見してリベラルなスローガンは、じつは何も語っていないか、
あるいは「男のみ」ということを語っているかのどちらかなのです。
お茶の水女子大大学院人間文化研究科教授。
嗜好の性差のステレオタイプに、生得的な好みの差がたまたま一致したとしても、
それを唯一の要因とみなすことはできない
1955年生まれ。農学博士。
女の子なら人生に一度はおでんを作らない限り、永遠の「孤独」が待ち受けている
1952年。早稲田大学大学院-文学研究科博士課程修了。
下部:ある会社のインタビューにて、その会社にはどんな職種があるのか尋ねると、
ディーラー、ファンドマネージャー、女性
事務職、営業職、研究職、あ、あと女性も少しいます
いくら個人が決意しても、社会の仕組みが変わらなければ、問題は解決しない
1951年生まれ。大阪大学大学院人間科学研究科教授。
わたしはたしかに父に愛されて育った。わたしもそのように育てたい。
子どもにとっては、それ以上に重要なことはないだろうから。
1964年生まれ。東京工業大学大学院-社会理工学研究科助教授。
セクシュアリティという、人間に関する真理、権力によって抑圧されたのではなく、
むしろ一定に、権力のテクノロジーないし装置によって、創り出されたものなのです。
1960年生まれ。東京大学大学院博士課程中退
権力は人々に対して、積極的に自分自身のことを語らせ、
またその語りを聞き取らせ、書き留めさせ、さらに分類させるものなのです。
1960年生まれ。東京大学大学院博士課程中退
神経症というのは、
自分の性について言葉で語ることを禁じられた者が、
そのかわりに体によって語っている
1960年生まれ。東京大学大学院博士課程中退
菓子を食い過ぎたり。菓子は断じて廃すべし
本質主義を批判せねばならないとすれば、そのときには、
自分がそれなしでは生きていけないような大切な「本質」をこそ
批判的に見直すという態度が必要だ
ある人にとってそれは「男」であるということかもしれないし、
別の人にとっては「日本人」や「正常」であるかもしれない。
1963年生まれ。明治学院大学社会学部教授。
マイノリティが抵抗のために集団として立ち上がるとき、
個々人の違いを超えた利害や歴史の一体性が強調されることがありますが、
それは本質主義的なナショナリズムなどを招き寄せてしまう。
1963年生まれ。明治学院大学社会学部教授。
ある人のある特定の属性に、
その人の存在そのものを覆い尽くすような特権的な価値を与えるならば、
それは本質主義なのです。
1963年生まれ。明治学院大学社会学部教授。
男であるということは支配する性である。
支配する性であるためには支配される性がなくてはならない。
男に似るということは、支配する性になる、ということを意味する。
ところで全員が支配する性になることが
論理的にも実践的にも無意味でありかつ不可能であるように、
男に似ることがジェンダーからの解放の目標ではありえない
フランスのフェミニズム理論家。
ジェンダーとは男女というふたつの項ではなく、ひとつの差別化という実践である、
だからジェンダーは複数ではなく、単数の概念である
フランスのフェミニズム理論家。
ジェンダーは挑戦だ。
今の日本社会にとって真の問題は「母なるもの」の喪失ではない。
「母なるもの」への人々の幻想と執着が、新たな時代に即した子育てや
家庭のあり方を求めていく柔軟さを失わせていることである。
1950年生まれ。学術博士。
母親が産んだ子の教育に専念するのが望ましいとする理念は、
自然発生的なものではなく近代社会の産物である。
1950年生まれ。学術博士。