将棋
差が開いてから相手に詰め寄られたとき
最初のリードの残像を残しているのはいけない。
形勢はまだ自分に有利なのに、追い詰められたと焦って思わぬミスをし、逆転を許すことになりかねない。
私が置かれている状況は、対戦する相手は常に強い人か、予選を勝ち抜いてきた好調な人
つまり好調の波に乗った人との対戦が多い。
相手はやる気も、波も常に最高。
そういう勢いのある人と対戦していると、そのときは大変でも、それをきっかけに
自分の調子が上向きになったりするのだ。
恵まれているなと思っている。
調子の良い状態を維持するために何か特別なことをしようという気持ちがない。
自然の流れに身を任せている。
プレッシャーはその人の持っている器に対してかかるものだ。
器が大きければプレッシャーを感じることがないはずだ。
意識的にそう言い聞かせている
人間は、いつも完璧でいることは不可能だ。
「仕方がない」と諦めるしかない。
「これから先はなければいいな」と、今は思っている。
そう考えるしかないのだ。
「これから先はなければいいな」と、今は思っている。
そう考えるしかないのだ。
私の最大のミスは、一手詰めをうっかり見落としたことだ。
2001年9月のことである。
普段なら読むのに一秒もかからない。それがわからなかった。
時に、魔が差すことがある。
普段なら読むのに一秒もかからない。それがわからなかった。
時に、魔が差すことがある。
ミスには面白い法則がある。
たとえば、最初に相手がミスをする。そして次に自分がミスをする。
ミスとミスで帳消しになると思いがちだが、あとからしたミスのほうが罪が重い。
そのときの自分のミスは、相手のミスを足した分も加わって大きくなるのだ。
いろいろ経験を積んできたし、訓練もしてきたが
どんなに訓練を積んでいても、ミスは避けられないという実感を抱いている。
人間は、ミスをするものだ。
将棋だけの世界に入っていると、そこは狂気の世界なのだ。
ギリギリまで自分を追い詰めて、どんどん高い世界へ登りつめていけばいくほど
心がついていかなくて、いわゆる狂気の世界に近づいてしまう。
一度そういう世界に行ってしまったらもう戻ってくることはできないと思う。
入り口はあるけど出口はないのだ。
入り口は見えるけれど、一応、入らないでおこうと思っている。
入り口はあるけど出口はないのだ。
入り口は見えるけれど、一応、入らないでおこうと思っている。
これ以上集中すると「もう元に戻れなくなってしまうのでは」と、ゾッとする恐怖感に襲われることもある。
私が深く集中するときは、スキンダイビングで海に深く潜っていく感覚と似ている
潜るときはゆっくりと、水圧に体を慣らしながら潜るように、集中力もだんだんと深めていかなければならない。
そのステップを省略すると、深い集中の域に達することはできない。
そのステップを省略すると、深い集中の域に達することはできない。
以前はすべての戦形について、すべてを理解していたいという気持ちがあったが
今は、あまりにも拡散が進んでしまっているので難しい。
そういう時代になったのかな、と感じている。
リスクを避けていては、その対戦に勝ったとしてもいい将棋を残すことはできない。
次のステップにもならない。
それこそ、私にとっては大いなるリスクである。
慣れていない、感覚でとらえられない局面は
たとえ失敗があったとしても、挑戦の楽しさがある。
将棋に限らず、何事でも発見が続くことが、楽しさ、面白さ、幸せを継続させてくれると思っている。
相手は敵であると同時に作品の共同制作者であり
自分の個性を引き出してくれる人ともいえる。
棋士は指し手に自分を表現する。音楽家が音を通じ、画家が線や色彩によって自己を表現するのと同じだ。
もし、私が将棋の神様と対局したら、香落ちでは木っ端みじんにやられてしまう。
角落ちでやっと勝たせてもらえるだろう。
勝負どころを検証する「読み」についていうと、年齢が上がるにつれ読めなくなる人がいるが
それは読めないのではない。短い時間で閃かないだけで、時間をかければ読める。
確かに、年代が上がると、短時間で読む力は衰える。
私も、二十歳のときから見ればだいぶ落ちている。
その代わり、年を重ねると、思考の過程をできるだけ省略していく方法が身につく。
私も、二十歳のときから見ればだいぶ落ちている。
その代わり、年を重ねると、思考の過程をできるだけ省略していく方法が身につく。
私は、いつも、決断することは本当に難しいと思っている。
直感によって指し手を思い浮かべることや、検証のための読みの力も大切であるが
対局中は決断の連続である。
その決断力の一つ一つが勝負を決するのである。
この筋はダメという結論が出たときに、長い時間考えると、その手筋を捨て去ることが思い切れなくなることがある。
情が移ってしまうのだ。
長い時間考えた手がうまくいくケースは非常に少ない。
一時間以上考えているときは、考えるというよりも迷っている。
確信をもって、「これ!」と決断するのは意外に難しく、どの道を選んでも
「これもありそうだ」とか「どれを選んでもうまくいきそうもない」と
決断できないケースがものすごく多い。
最後には、「どうにでもなれ!」という心境で決断することも結構ある。
周りの信用の後押しが、ぎりぎりの勝負になって出てくるのではないかと思っている。
プロ野球などで、「チャンスに強い。打ってくれるだろう」とファンから期待される選手がいる。その期待に応えてサヨナラホームランを打つ。チームに劇的な勝利をもたらしたあとのインタビューで「ファンの皆様のお陰です」と答える場面をよく見かける。これは、決して社交辞令ではない。
どちらかに勝たせたい、といった気分は
対局場のどこかに必ずあり、それを隠すことはできない。
空気を対局者は鋭く感じ取ってしまう。
守りたければ、攻めなければならない。
守ろう、守ろうとすると後ろ向きになる。