羽生善治 99

生 1970年9月27日
日本の将棋棋士。二上達也九段門下。棋士番号は175。...-ウィキペディア

他力が勝負を決める。

忘れることですね

相手のことを知るよりも、自分自身が強くなればそれで済む世界だし、
それを目指した方が本筋というか、王道という気がしたんです

20代には20代にしかできない将棋がある

記憶力のピークは20歳。


20歳だった。とされている場合もあり

    最善を尽くしていればピークなぞ訪れん。だから間違っても、この言葉を言い訳に使っちゃいけない - 銘無き石碑

    医学を否定するようなコメントだなー↑
    「私はもう記憶力にはすがらない」
    ってことが羽生名人の言いたいことじゃないのかねえ - 銘無き石碑

    私は単純に、今もとても強いじゃないか。この人は次元が違うなと思いました。
    確かに決断力が大切だと羽生さんは仰っていますが、この言葉からそれをくむのは少し無理があるような…深読みする必要はないと思いますよ。 - 銘無き石碑

「読み」より「勘」。

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今の情報化社会では知識や計算は簡単に手にできる。
だからもう、それらにはあまり意味がない。
これからの時代の人間にとって大事なのは、決断することだと思います。


『世界一受けたい授業』にて

追い詰められた場所にこそ、大きな飛躍があるのだ。

人間は本当に追い詰められた経験をしなければダメということもわかった。

一回勝負であれば、奇襲作戦が成功する確率も高いだろう。
相手の虚を衝き、動揺を誘うのもいい。
しかし、同じ人と何十回も対戦していくとなると、奇襲作戦は意味がない。

将棋の世界は、現役が150人しかいない

ひたすら平常心で。

楽観はしない。ましてや悲観もしない。

相手のミスがあって、初めて形勢は逆転する。

そのときをじっと待つ。期待せずに待つことだ。
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勝負は相手が嫌がることをやるものなのだ。

意表をつかれることに驚いてはいけない。

「これでいけるだろう」と判断する基準が、私の場合、甘いらしい。
可能性を人より広く持っているのかもしれない。

奇を衒って何かをやっている意識はまったくない。

人間には二通りあると思っている。
不利な状況を喜べる人間と、喜べない人間だ。

最初からピンチを招こうと思っている人はいないが、ピンチに陥って奮い立ち、知恵を出せる人と怯んでしまう人がいる。

勝負どころでは、あまりごちゃごちゃ考えすぎないことも大切である。

優勢のほうが手数をかけていると展開はおかしくなる。
迷いやミスが生じやすい。

まず自分の頭で考えることが先決だ

定跡は、ただ記憶するだけでは実戦ではほとんど役に立たない。
そこに自分のアイデアや判断をつけ加えて、より高いレベルに昇華させる必要がある。

将棋でもっとも大事なのは、一つの場面で正確な判断を下すことだ。

その基準を瞬時に見いださなければならない。

これまでの経験から、たくさんの知識がばらばらに思い浮かぶ。
だが、それらはジグソーパズルのピースのようなものなので
そのままでは役に立たない。

方向性やプランに基づいて、ばらばらの知識のピースを連結するのが知恵の働きである。

経験を積んでくると、余計な思考が省ける

たくさん読むのではなく、パッと見て「この手の展開は流れからいってダメだ」「この手しかないから見通しが立つまで考えよう」とピントが合わせられるようになる。

毎回毎回通用するものではなく、瞬間的な若さの特権だったのだろうと、今は思っている。

危ないところでも、危険を顧みずに平気で渡っていける。若さの強さだと思う。

一般に経験は人を強くするという固定観念があるが、いろいろ考えすぎてしまい
一番いい方法にたどり着くのに時間がかかったりしてしまう。

経験をつんで選択肢が増えている分だけ、怖いとか、不安だとか、そういう気持ちも増してきている。

情報を多量に知識として詰め込んでいれば
非常に高いレベルでも「自分はそれをすでに完璧に習得している」と
錯覚してしまうことも考えられる。

今は情報化時代なのだ

決断するときは、たとえその手が危険であっても、わかりやすい手を選んでいる。

かなり危険だと判断しても、私は、踏み込んで決断するほうだと思う。

自分から踏み込むことは勝負を決める大きな要素である。

相手に何もさせたくないからと距離を十分に置いていると
相手が鋭く踏み込んできたときに受けに回ってしまう。

「これがよさそうだ」という手が一つも見えない場面も非常に多い。

そういうときは、できるだけ可能性を広げて、自分にとってマイナスにならないようにうまく相手に手を渡すのだ。