羽生善治 99

生 1970年9月27日
日本の将棋棋士。二上達也九段門下。棋士番号は175。...-ウィキペディア

頭の中に空いたスペースがないと集中できない。
対局場に向かうために移動するとき、基本的になにも考えずに
窓の外の風景を見たり、将棋に関係ない本を読む。

一日でも二日でも頭の中を空っぽにしておいたほうがいいようだ。

生活の中でぼんやりすることは大切だ。
いかに切り離すかが大事なのだ。

将棋はいつでも、どこでも考えられる。
頭が煮詰まってしまう。

将棋だけの世界に入っていると、そこは狂気の世界なのだ。
ギリギリまで自分を追い詰めて、どんどん高い世界へ登りつめていけばいくほど
心がついていかなくて、いわゆる狂気の世界に近づいてしまう。

一度そういう世界に行ってしまったらもう戻ってくることはできないと思う。
入り口はあるけど出口はないのだ。
入り口は見えるけれど、一応、入らないでおこうと思っている。

いろいろ経験を積んできたし、訓練もしてきたが
どんなに訓練を積んでいても、ミスは避けられないという実感を抱いている。

人間は、ミスをするものだ。

ミスには面白い法則がある。
たとえば、最初に相手がミスをする。そして次に自分がミスをする。
ミスとミスで帳消しになると思いがちだが、あとからしたミスのほうが罪が重い。

そのときの自分のミスは、相手のミスを足した分も加わって大きくなるのだ。

私の最大のミスは、一手詰めをうっかり見落としたことだ。

2001年9月のことである。
普段なら読むのに一秒もかからない。それがわからなかった。
時に、魔が差すことがある。
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人間は、いつも完璧でいることは不可能だ。

「仕方がない」と諦めるしかない。
「これから先はなければいいな」と、今は思っている。
そう考えるしかないのだ。

プレッシャーはその人の持っている器に対してかかるものだ。
器が大きければプレッシャーを感じることがないはずだ。

意識的にそう言い聞かせている

調子の良い状態を維持するために何か特別なことをしようという気持ちがない。

自然の流れに身を任せている。

私が置かれている状況は、対戦する相手は常に強い人か、予選を勝ち抜いてきた好調な人
つまり好調の波に乗った人との対戦が多い。
相手はやる気も、波も常に最高。
そういう勢いのある人と対戦していると、そのときは大変でも、それをきっかけに
自分の調子が上向きになったりするのだ。

恵まれているなと思っている。

差が開いてから相手に詰め寄られたとき
最初のリードの残像を残しているのはいけない。

形勢はまだ自分に有利なのに、追い詰められたと焦って思わぬミスをし、逆転を許すことになりかねない。
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損を一気に取り戻そうとすると、うまくいかないことが多い。

徐々に差を詰めることが大切である。

勝負に一番影響するのは「怒」の感情だ。

何事にも「負けるのは絶対に嫌だ」というのは勝負師の本性なのかもしれない。

プロの棋士の中には、将棋以外のことにも闘争心をむきだしにする人が多いようだ。

勝つことが目的だが、勝とうとするのはある意味で、欲である。

その欲が考えを鈍くしたり、度胸を鈍くする。

    やはり君の敗北です。 - 銘無き石碑

    君と私の間で勝負する必要がある? - 銘無き石碑

    君は男としての底力が弱いからね~ - 銘無き石碑

    男らしい男は全体の2割。女々しいが5割。その他が3割。 - 銘無き石碑

    男としての底力を出すんだ。 - 銘無き石碑

私は、対局が終わったら、その日のうちに勝因、敗因の結論を出す。

そして、翌日には真っ白な状態でいたいと思っている。

    君と付き合っても愛情がないから、お別れしようと思います。友人関係だけ続けますね。 - 銘無き石碑

    君はどうしようもなく寂しがり屋さんだから放っておけない。 - 銘無き石碑

    結婚する気がないなら、寂しがり屋さんの面倒をみるのは嫌だなあ。 - 銘無き石碑

    ショボい男の相手をしてきた女も実はショボかったんだろう。どちらかが成長したら離れていくよ。 - 銘無き石碑

    私はショボい人間ではない。だから、君もショボい訳ではない。 - 銘無き石碑

集中力の基盤になるのは根気であり、その根気を支えるためには
体力が必要だと思っている。

体力がないと苛立ちに負けて、考える力はまだ残っているのに、結論を急ぎたがり、最後まで集中して頑張り切れない。

人生の中で目指しているものがはっきりしている人は
いくつになってもエネルギーがある。

エネルギーが枯渇してしまうと、やる気はふくらまないし、持続しない。

人生は食事をして眠るだけのくり返しではない。
「こういうことができた」「こういうことを考えた」という部分がある。

何かに打ち込んでいる人には、そういう発見があると思っている。

情報が平等に手に入るようになったのは、一つの進歩である。

年間二千局ほどの棋譜がインターネットで、全てパソコンで検索できるようになっている。

何事であれ、最終的には自分で考える覚悟がないと、情報の山に埋もれるだけである。

情報を処理、判断して、いかに新しいアイデアを出せるかが勝負になっている。

    誰と結婚したって、相手に幸せにしてほしいと期待していたら、いつかは失望する日が待っている。自分が幸せならば、相手を幸せにできるのだ。 - 銘無き石碑

山ほどある情報から自分に必要な情報を得るには
「選ぶ」より「いかに捨てるか」のほうが重要なのである。

情報をいくら分類、整理しても、どこが問題かをしっかりとらえないと正しく分析できない。

文献に書いてあることはすでに常識である。問題はそのあとだ。

その先を目指すには、自分で手を動かすことが知識に血肉を通わせることになる。

昔勉強したことが役立たないことに虚しさをおぼえることもある。
それがまったくのムダであったかというと、自分ではムダだったとは思っていない。

確かに、今の人なら、私が学んだ三年分、五年分の知識も一冊の本を読めば一気に詰め込むことができる。
だが、私自身は、それを理解していく過程で、こうすれば早く修得できる、こうしたほうが理解が深まるという方法論を得ることができた。

プロの世界では、これが「よし」という結論が出たら、その形は二度と実戦に現れない。

最後の詰めまで研究し尽くされてしまう。