芥川龍之介 42

1892年3月1日 - 1927年7月24日
日本の小説家。本名同じ、号は澄江堂主人(ちょうこうどうしゅじん)、俳号は我鬼。 その作品の多くは短編である。また、「芋粥」「藪の中」「地獄変」など、『今昔物語集』『宇治拾遺物語』といった古典から題材をとったものが多い。「蜘蛛の糸」「杜子春」といった児童向けの作品も書いている。...-ウィキペディア

最も賢い生活は一時代の習慣を軽蔑しながら、
しかも、その又習慣を少しも破らないように暮らすことである。

「河童」より

    少年のとき、この言葉を聞いた。
    青年の頃には、この言葉が「座右」となっていることに気付いた。
    壮年になり、この言葉が決して軽いものではないと知った。
    老年となったころ、僕はこの言葉に何を想うのだろうか。
    H20.1.4 - Takashi

個人は神の前に懺悔した。今人は社会の前に懺悔している。

「侏儒の言葉」より

人生はつねに複雑である。
複雑なる人生を簡単にするものは暴力よりほかにあるはずはない。

「侏儒の言葉」より

    二股はよくありません。誰も幸せにしません。私から身を引きますよ。そしたら、君は幸せになれるね。 - 銘無き石碑

世論はつねに私刑である。私刑はつねに娯楽である。

「侏儒の言葉」より

    まさにこれは今の世のネットイナゴを的確に言い表した言葉ではないだろうか。 - 銘無き石碑

    加えてつねに極刑である - オトコン

われわれを恋愛から救うものは、理性よりもむしろ多忙である。恋愛もまた完全に行われるためには何よりも時間を持たねばならぬ

「侏儒の言葉」より

良心は道徳をつくるかも知れぬ。
しかし道徳はいまだかつて良心の「良」の字を創ったことはない。

「侏儒の言葉」より
広告

我々の生活に必要な思想は三千年前に尽きたかもしれない。
我々は唯古い薪に新しい炎を加えるだけであろう。

「河童」より

古来賭博に熱中した贋世主義者のないことは、
如何に賭博の、人生に酷似しているかを示すものである

「侏儒の言葉」より

私は不幸にも知っている。時には嘘によるほかは語られぬ真実もあることを。

「侏儒の言葉」より

運命は偶然よりも必然である「運命は性格の中にある」という言葉はけっして等閑に生まれたものではない

「侏儒の言葉」より

阿呆はいつも彼以外のものを阿呆であると信じている

「河童」より

    何をいっているんだ、こいつは?本当にどいつもこいつも阿呆ばっか!! - 阿呆
広告

人生の悲劇の第一幕は親子となったことに始まっている

「侏儒の言葉」より

河童の生活くらい莫迦げているものはありません。親子兄弟などというものは悉く互いに苦しみ合うことを唯一の楽しみにして暮らしているのです

「河童」より

キリストはみずから燃え尽きようとする一本のローソクにそっくりである。

「続西方の人」より

懐疑主義者もひとつの信念の上に、
疑うことを疑わぬという信念の上に立つものである。

「侏儒の言葉」より

あらゆる社交はおのずから虚偽を必要とするものである。

「侏儒の言葉」より

人生は一箱のマッチに似ている。重大に扱うのはばかばかしい。重大に扱わなければ危険である

「侏儒の言葉」より

    単純で分かりやすいヾ(@⌒ー⌒@)ノ - いちご

    とてもわかりやすい - いビルジョー

正義は武器に似たものである。武器は金を出しさえすれば、敵にも味方にも買われるであろう。
正義も理屈をつけさえすれば、敵にも味方にも買われるものである。

「侏儒の言葉」より

天才とは僅かに我々と一歩を隔てたもののことである

「侏儒の言葉」より

天才の悲劇は「小ぢんまりした、居心地のよい名声」を与えられることである

「侏儒の言葉」より

道徳の与えたる恩恵は時間と労力との節約である。
道徳の与えたる損害は完全なる良心の麻痺である。

「侏儒の言葉」より

われわれを支配する道徳は資本主義に毒された封建時代の道徳である。
われわれはほとんど損害のほかに、何の恩恵にも浴していない。

「侏儒の言葉」より

強者は道徳を蹂躙するであろう。
弱者はまた道徳に愛撫されるであろう。
道徳の迫害を受けるものはつねに強弱の中間者である。

「侏儒の言葉」より

自然を愛するのは、自然がわれわれを憎んだり、嫉妬しないためでもない事はない。

「河童」より

    君が嫉妬しなくて済む女性と過ごすと、安息を得られるんじゃない?似た者同士が一番相性がいいんだよ。 - 銘無き石碑

道徳は常に古着である。

『侏儒の言葉』(岩波文庫版10頁)