ヒト

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知的で客観的な記述の方法とは、実はかえって限定的なものだ。
人格的なものに立脚した探求こそ、我々の知の宇宙的位置づけを明確にするものだ。
比較によって形成される感知や感覚は、常にある種の虚構である。
人間の感覚器官は、差異の知らせ(例 左右の視覚)しか受け取らない。
…にもかかわらず、それを新しい次元(奥行き)の中で補足するのが、感覚のキイなのだ。
これは知(knowing)の構図における原理の層の一段階アップの位相である。
そしてそれは、たとえ虚構であっても実在であり、従って、
科学的発見においても、この比較のプロセスを暗黙的に理解している者が勝利する。

「意味と生命」、グレゴリー・ベイトソンの議論に関連した部分(p68-69)
栗本慎一郎 15

日本の経済人類学研究者、法社会学研究者、評論家、有明教育芸術短期大学学長。国会議...-ウィキペディア

宇宙の円環せる情報システムと合一したとて、人間の至福はないのだ。
その予感こそが、
人間をして
ノントリップの意識状態に通常、浮遊させていく
出発点となったものなのである。

「反文学論」から(p204)
栗本慎一郎 15

日本の経済人類学研究者、法社会学研究者、評論家、有明教育芸術短期大学学長。国会議...-ウィキペディア

全員がある根拠をもって「見る」=共通の認識こそが「事実」なのだ。
それは体系的に決まったものであり簡単に変えることはできない。
しかし、関係は関係なのであって、一定不変の実体のようなものとは違う。
その関係さえ理解できれば、「事実」を変えることができる。
全員が、それが石なら石と見えている根拠Aを乗り越える根拠Bをもって「これは木だ」と思おうとするとき、
それはあきらかに「木」に見えてくるものなのだ。
人々が何故にこれを石と見ているのか、木に見えないのは何故かという根拠がわかればできることである。
我々がまだ見つけていないだけであって、石に見えていたものを木に見せるシステムはあるに違いない。
その根拠そのものを見るところに科学は動いていっていることはたしかである。

「人類は思考する“金魚”である」から(旧版「人類新世紀終局の選択」p103 引用者やや編集)
栗本慎一郎 15

日本の経済人類学研究者、法社会学研究者、評論家、有明教育芸術短期大学学長。国会議...-ウィキペディア

革命とは、経済的な問題や、搾取の鎖を断ち切るというようなことではまったくない。
「共同幻想と私的幻想の離反から生じた自らの神経症の危機」に直面したヒトの社会全体が、
それを治し、自らを蘇生させる行動なのである。

「パンツをはいたサル」から(旧版p144~145 引用者一部要約)
栗本慎一郎 15

日本の経済人類学研究者、法社会学研究者、評論家、有明教育芸術短期大学学長。国会議...-ウィキペディア

「すべての問題」が、まさしくすべてである「生命」の量子概念的検討にさらされたうえで、ある程度整合的に再提示されるべきだし、そうされうるだろう。

「意味と生命」から(p303)
栗本慎一郎 15

日本の経済人類学研究者、法社会学研究者、評論家、有明教育芸術短期大学学長。国会議...-ウィキペディア