知的で客観的な記述の方法とは、実はかえって限定的なものだ。
人格的なものに立脚した探求こそ、我々の知の宇宙的位置づけを明確にするものだ。
比較によって形成される感知や感覚は、常にある種の虚構である。
人間の感覚器官は、差異の知らせ(例 左右の視覚)しか受け取らない。
…にもかかわらず、それを新しい次元(奥行き)の中で補足するのが、感覚のキイなのだ。
これは知(knowing)の構図における原理の層の一段階アップの位相である。
そしてそれは、たとえ虚構であっても実在であり、従って、
科学的発見においても、この比較のプロセスを暗黙的に理解している者が勝利する。
「意味と生命」、グレゴリー・ベイトソンの議論に関連した部分(p68-69)
栗本慎一郎