フョードル・ドストエフスキー 105

1821年11月11日 - 1881年2月9日
ロシアの小説家・思想家である。代表作は『罪と罰』、『白痴』、『悪霊』、『カラマーゾフの兄弟...-ウィキペディア

真実を語る者は機知のない人間だけである。

「白痴」より

選ばれた者は、凡人社会の法を無視する権利がある。

「罪と罰」より

    ドストエフスキーはこの言葉を「罪と罰」に残しているが、この考えははっきりと彼自ら作品中で否定してるよね - 銘無き石碑

    パッと見違和感はあるよね - 銘無き石碑

真の真理というものは、常に真理らしくないものである。

「悪霊」より

人間は柔軟な動物であり、どんなことにもなれてしまうところの存在である。

「断片」より

人間は繁栄以外のものを愛することが、場合によってないのか。
人間には逆境をあえて愛し、しかも熱愛するときも確かにあるのだ

「地下牢生活の手記」より

人間は卑劣漢として生きることができないのみならず、卑劣漢として死ぬこともできない。人間は清らかに死なねばならない

「カラマーゾフの兄弟」より
広告

文明のおかげで人間がより残忍になったとはいえないとしても、
前よりも残忍さが醜悪になったことは確かだろう。

「地下室の手帖」より

人生は苦痛であり、人生は恐怖である。だから人間不幸なのだ、だが、人間は今では人生を愛している。それは苦痛と恐怖を愛するからだ

「悪霊」より

今さら日数なんて数えて何になりますか。
人間が幸福を知り尽くすには、
一日あれば十分ですよ

「カラマーゾフの兄弟」より

お母さん、泣かないでよ。
人生は楽園なんです。
僕らはみんな楽園にいるのに、
それを知ろうとしないんですよ。
知りたいと思いさえすれば、
明日にも、世界じゅうに楽園が生まれるに違いないんです

「カラマーゾフの兄弟」より

そうだ、僕のまわりには小鳥だの、木々だの、
草原だの、大空だのと、
こんなにも神の栄光があふれていたのに、
僕だけが恥辱の中で暮らし、
一人であらゆるものを汚し、
美にも栄光にも全く気づかずにいたのだ

「カラマーゾフの兄弟」より
広告

自由というのは、
生きていても生きていなくても同じになる時、
はじめて得られるのです。
これがすべての目的です

「悪霊」より

だが人間の性というものは全一的に、
人間のうちに意識的、無意識的に存在する
いっさいをあげて活動しているのであり、
嘘もつこうが、ともかく生きているのだ

「地下鉄の手記」より

ゼロだよ。
とにかくゼロに賭けるんだ

「賭博者」より

処刑前の五分間について
彼は時間の割り振りをした。
まず友達との別れに二分間ばかりあて、
さらに二分間を
もう一度自分自身の人生を振り返る為にあて、
最後の一分間はこの世の名残りに、
周囲の自然風景を
静かに眺める為にあてたのです

「白痴」より

僕は人類全体の苦痛の前に頭を下げたのだ

「罪と罰」より

僕には時々、
自分の空想が幸福の絶頂を極めて、
是が非でも即刻、
全人類と抱き合う必要が生ずる時がある

「地下室の手記」より

私がこの小説を書いたのも、
このムイシュキンとロゴージンが
二人一緒に迎える結末が
書きたかった為だと言ってもいいくらいです

「白痴」を書き上げた後に言った言葉

苦痛と恐怖を征服した人間が、
神となるのです。
そのときにこそ新しい生がはじまる。
新しい人間が生まれる。
すべてが新しくなるのです

「悪霊」より

神は、発生から消滅にいたるまでの
民族全体の、総合的人格である

「悪霊」より

ぼくが自分の神とするものの、
その属性は、すべてにわたって
自分の意志をおしとおすことにある!

「悪霊」より

世界を支配しているのは、
神とその法則である

「作家の日記」より

こうしたしくみのいっさいを秘めている蒸留器のなかを、
わたしはのぞいてみたわけではないが、
しかし一定の法則は必ず存在するし、存在するはずだ。
そこには偶然性などありえない

「罪と罰」より

みんなのために
自発的にいのちを捨てること、
みんなのために十字架にのぼり、
火刑の火のなかにはいることは、
個性がもっとも強度に発達したときに
はじめてできることである

「夏の印象を冬にしるした覚え書き」より

今日でも、社会をまもるばかりでなく、
犯罪者をも更生させ
別人間に生まれ変わらせるものが
なにかあるとすれば、
それはやはり、自分の良心にあらわれる
キリストの掟だけである

「カラマーゾフの兄弟』」より