三木清 62

1897年1月5日 - 1945年9月26日
(西田左派を含めた上での)京都学派の哲学者。弟に中国文学者の三木克己がいる。...-ウィキペディア

雄弁は人を考えさせようとするのではなく、
人を動かそうとするのである。

「雄弁について」より

不安と焦躁とは傲慢な心のことであり、静けさと安けさとは謙虚な心のことである。よき魂は謙虚な魂であり、そしてよき魂のみがよき仕事を成し遂げることができる。

『語られざる哲学』
から

旅に出ることは、日常の習慣的な安定した関係を脱すること。
(略)
旅の利益は、単にまったく見たことのない物を初めて見ることにあるのではなく、
平素自明のもの、既知のもののように考えていたものに驚異を感じ、
新たに見直すところにある

『人生論ノート』

幸福は表現的なものである。鳥の歌ふが如くおのづから外に現はれて他の人を幸福にするものが眞の幸福である。

出典:「人生論ノート」

習慣を自由になし得る者は人生において多くのことを為し得る。習慣は技術的なものである故に自由にすることができる。もとよりたいていの習慣は無意識的な技術であるが、これを意識的に技術的に自由にするところに道徳がある。修養といふものはかやうな技術である。

出典:「人生論ノート」

すべての人間の悪は孤独であることができないところから生ずる。

出典:「人生論ノート」
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いかにして虚栄をなくすることができるか。虚無に帰することによって。それとも虚無の実在性を証明することによって。言い換えると、創造によって。創造的な生活のみが虚栄を知らない。創造というのはフィクションを作ることである、フィクションの実在性を証明することである。

出典:「人生論ノート」

健全な胃をもつている者が胃の存在を感じないやうに、幸福である者は幸福について考へないといはれるであらう。しかしながら今日の人間は果して幸福であるために幸福について考へないのであるか。むしろ我々の時代は人々に幸福について考へる気力をさへ失はせてしまつたほど不幸なのではあるまいか。幸福を語ることがすでに何か不道徳なことであるかのやうに感じられるほど今の世の中は不幸に充ちているのではあるまいか。

出典:『人生論ノート』

ストイックといふのはむしろ名誉心と虚栄心とを区別して、後者に誘惑されない者のことである。その区別ができない場合、ストイックといつても一つの虚栄に過ぎぬ。

出典:「人生論ノート」

    虚栄心のせいで、結局は何も進まない。というよりは、ただ怠惰なだけ。困難を克服して、恥ずかしくない誇り高い生き方を体現せよ。真に有能ならば虚栄心は不要だ。実力で名誉を勝ち取れるのだから。 - 銘無き石碑

ひとは軽蔑されたと感じたとき最もよく怒る。だから自信のある者はあまり怒らない。彼の名誉心は彼の怒が短気であることを防ぐであらう。ほんとに自信のある者は静かで、しかも威厳を具へている。それは完成した性格のことである。

出典:「怒について」(『人生論ノート』に収録)

物が眞に表現的なものとして我々に迫るのは孤独においてである。そして我々が孤独を超えることができるのはその呼び掛けに應へる自己の表現活動においてのほかない。アウグスティヌスは、植物は人間から見られることを求めてをり、見られることがそれにとつて救済であるといつたが、表現することは物を救ふことであり、物を救ふことによつて自己を救ふことである。かやうにして、孤独は最も深い愛に根差している。そこに孤独の実在性がある。

出典:「孤独について」(『人生論ノート』に収録)
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嫉妬は自分よりも高い地位にある者、自分よりも幸福な状態にある者に対して起る。だがその差異が絶対的でなく、自分も彼のやうになり得ると考へられることが必要である。全く異質的でなく、共通なものがなければならぬ。しかも嫉妬は、嫉妬される者の位置に自分を高めようとすることなく、むしろ彼を自分の位置に低めようとするのが普通である。嫉妬がより高いものを目指しているやうに見えるのは表面上のことである、それは本質的には平均的なものに向つているのである。この点、愛がその本性においてつねに高いものに憧れるのと異つている。

出典:「嫉妬について」(『人生論ノート』に収録)

嫉妬をなくするために、自信を持てといはれる。だが自信は如何にして生ずるのであるか。自分で物を作ることによつて。嫉妬からは何物も作られない。人間は物を作ることによつて自己を作り、かくて個性になる。個性的な人間ほど嫉妬的でない。個性を離れて幸福が存在しないことはこの事実からも理解されるであらう。

出典:「嫉妬について」(『人生論ノート』に収録)

眞に旅を味ひ得る人は眞に自由な人である。旅することによつて、賢い者はますます賢くなり、愚かな者はますます愚かになる。日常交際している者が如何なる人間であるかは、一緒に旅してみるとよく分るものである。人はその人それぞれの旅をする。旅において眞に自由な人は人生において眞に自由な人である。人生そのものが実に旅なのである。

出典:「旅について」(人生論ノート)

個性を理解しようと欲する者は無限のこころをしらねばならぬ。無限のこころを知らうと思ふ者は愛のこころを知らねばならない。愛とは創造であり、創造とは対象に於て自己を見出すことである。愛する者は自己において自己を否定して対象において自己を生かすのである。

出典:「個性について」(人生論ノート)

自己を知ることはやがて他人を知ることである。私達が私達の魂がみづから達した高さに應じて、私達の周囲に次第に多くの個性を発見してゆく。自己に対して盲目な人の見る世界はただ一様の灰色である。自己の魂をまたたきせざる眼をもつて凝視し得た人の前には、一切のものが光と色との美しい交錯において拡げられる。

出典:「個性について」(人生論ノート)

成功と幸福とを、不成功と不幸とを同一視するやうになつて以来、人間は眞の幸福が何であるかを理解し得なくなつた。自分の不幸を不成功として考へている人間こそ、まことに憐れむべきである。

出典:「成功について」(人生論ノート)

他人の幸福を嫉妬する者は、幸福を成功と同じに見ている場合が多い。幸福は各人のもの、人格的な、性質的なものであるが、成功は一般的なもの、量的に考へられ得るものである。だから成功は、その本性上、他人の嫉妬を伴ひ易い。

出典:「成功について」(人生論ノート)

利己主義者が非情に思はれるのは、彼に愛情とか同情とかがないためであるよりも、彼に想像力がないためである。そのやうに想像力は人生にとつて根本的なものである。人間は理性によつてといふよりも想像力によつて動物から区別される。愛情ですら、想像力なくして何物であるか。愛情は想像力によつて量られる。

出典:「利己主義について」(人生論ノート)

期待は他人の行為を拘束する魔術的な力をもつている。我々の行為は絶えずその呪縛のもとにある。道徳の拘束力もそこに基礎をもつている。他人の期待に反して行為するといふことは考へられるよりも遥かに困難である。時には人々の期待に全く反して行動する勇気をもたねばならぬ。世間が期待する通りにならうとする人は遂に自分を発見しないでしまふことが多い。秀才と呼ばれた者が平凡な人間で終るのはその一つの例である。

出典:「利己主義について」(人生論ノート)

どのやうな利己主義者も自己の特殊的な利益を一般的な利益として主張する。ーーーそこから如何に多くの理論が作られているか。ーーーこれに反して愛と宗教においては、ひとは却つて端的に自己を主張する。それらは理論を軽蔑するのである。

出典:「利己主義について」(人生論ノート)

多少とも権力を有する地位にある者に最も必要な徳は、阿る者と純眞な人間とをひとめで識別する力である。これは小さいことではない。もし彼がこの徳をもつているなら、彼はあらゆる他の徳をもつていると認めても宜いであらう。

出典:「偽善について」(人生論ノート)

個人は抽象的な人類や世界ではなく却つて民族といふが如き具体的な全体と結びついて具体的な存在であるのである。個人は民族を媒介するのでなければ具体的に人類的或ひは世界的になることができない。単に人類的と考へられるやな個人は抽象的なものに過ぎぬ。単なる世界人は根差しなきものである。

出典:「全体と個人」(三木清全集第14巻)

すべての理念的なものは運命的なものを通じて実現される。個人の任務は民族を通じ民族のうちにおいて世界的なものを実現することである。個人は自己の民族を世界的意義あるものに高めねばならず、そのためには個人はどこまでも自主的に民族と結び付くことが必要である、個人が自発的でないところでは人類的価値を有する文化は作られないから。

出典:「全体と個人」(三木清全集第14巻)

世の中に孤立した物は何ひとつない、すべての物は関係に立つている。しかるに独善家の陥り易い危険は、孤立的であることが自主的であるかのやうに考へることである。自主的外交といつても、孤立的外交のことではなからう。自己を世界のうちにおいて見、その中における独自の立場に立脚して、他との関係を定めてゆくのが自主的外交でなければならぬ。

出典:「自主的思考の反省」(三木清全集第14巻)