レジデント 23
ブロガー
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無理矢理の「説得」に対して、素早く「謝罪」を行うことで、
問題は初めて、事実だけを扱える。
謝罪なしに事実を論じると、恐らくはもっとこじれる。
世界的に権威のある教科書(洋書)だから、信頼性なら完璧なのに、
いざそれを使おうとして、それを翻訳するのが自分であることに思い至って、
その本がいきなり信用できないものに変わった。
レジデント初期研修用資料(medt00lz.s59.xrea.com)より
普段は馬鹿にして、ろくに読みもしなかった日本語の「今日の治療指針」がありがたくて、それに頼ってようやく病棟を回すことができた。
普段は馬鹿にして、ろくに読みもしなかった日本語の「今日の治療指針」がありがたくて、それに頼ってようやく病棟を回すことができた。
畳の「へり」なら転ばず歩けるのに、
それが地上10m の高さに置かれたそのとたん、足がすくんで動けなくなる。
模範解答を知っていることと、
実際に決断ができることとは全くと言っていいほど異なって、
いざ自分がその状況に置かれてみないと、その違いには気がつけない。
叩くのは気分がいいし、叩く人はしばしば賢しげに見えたりもする。
叩いて叩いて、現場を回してきた人たちが退場して、
叩いてきた人たちが勇躍リーダーになると、現場は固まる。
固まって、再び動き出すまで、恐らくは何年もかかる。
「部長の処方は今ひとつ」なんてえらそうに批判できた研修医の頃から、
その「今ひとつ」をようやく再現できるまで、結局10年近くかかった。
「無駄の多い」上司の処方箋というものは、一種の保険でもあった。
四方に保険を掛けるような、スマートでないやりかたというものは、重圧のかかる環境にあっても自身を自由にするために、
どうしても必要な「アソビ」であったのだけれど、当時の自分には、それが「無駄」に見えた。
四方に保険を掛けるような、スマートでないやりかたというものは、重圧のかかる環境にあっても自身を自由にするために、
どうしても必要な「アソビ」であったのだけれど、当時の自分には、それが「無駄」に見えた。
削ってはいけないアソビは、素人には真っ先に削るべきものに見えて、
そこを削ると、戻すのにとんでもない時間がかかる。
無駄を叩くのは気分がいい。必要な無駄に気がつくのには経験がいる。
無駄を叩く側からすると、必要な無駄をかばう人は「悪者」に見える。
論理はよくできていて、それ想定している範囲内であれば、
突っ込む場所もないのだけれど、
彼らが前提としている「絶対」が、しばしば絶対でなかったりする。
悪と叩く何かが、問題を常にちゃんと解決してくれていること」が、悪を叩ける前提になっていることがある。
世の中は「本当はこうあるべき」なのだけれど、
「悪い奴ら」が外面だけ取り繕っているから、
今の世の中がこれだけ腐っているにもかかわらず、一見するとそれなりに回って見える。
学校で学ぶべき、学校でしか学べない大切なものというのは、「負けかた」なのだと思う。
負けるというのは誰かの価値を受け入れることで、学びそのものでもある。
誰かに「勝つ」、説得するのは難しいけれど、
誰かに「負けない」ための技術というものには典型的なやりかたがいくつかあって、
それを習得して再現するだけで、議論をグダグダにすることができる。
審判は、そこにいる誰もが納得する「負け」のありかたを提案してみせないと、
ゲームはつまらないものになる。
ゲームのルールや審判が競技者から信頼されて、初めて競技は成立する。
レジデント初期研修用資料(medt00lz.s59.xrea.com)より
お互いに納得のいく負けかたを審判が示すことができて、その判断が公正であると信頼されれば、競技者は気持ちよく負けられる。
お互いに納得のいく負けかたを審判が示すことができて、その判断が公正であると信頼されれば、競技者は気持ちよく負けられる。
説得という行為は、事実に対してその人が抱いた感情を表明して、生み出された感情と、相手の行動とを接着しようとする試みなんだと思う。