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謝罪というものが、事実と感情とを切り離す道具なのだとしたら、
説得という行為は、事実に対してその人が抱いた感情を表明して、生み出された感情と、相手の行動とを接着しようとする試みなんだと思う。

無理矢理の「説得」に対して、素早く「謝罪」を行うことで、
問題は初めて、事実だけを扱える。
謝罪なしに事実を論じると、恐らくはもっとこじれる。


    ADHDかな? - 銘無き石碑

世界的に権威のある教科書(洋書)だから、信頼性なら完璧なのに、
いざそれを使おうとして、それを翻訳するのが自分であることに思い至って、
その本がいきなり信用できないものに変わった。

レジデント初期研修用資料(medt00lz.s59.xrea.com)より
普段は馬鹿にして、ろくに読みもしなかった日本語の「今日の治療指針」がありがたくて、それに頼ってようやく病棟を回すことができた。

畳の「へり」なら転ばず歩けるのに、
それが地上10m の高さに置かれたそのとたん、足がすくんで動けなくなる。
模範解答を知っていることと、
実際に決断ができることとは全くと言っていいほど異なって、
いざ自分がその状況に置かれてみないと、その違いには気がつけない。

叩くのは気分がいいし、叩く人はしばしば賢しげに見えたりもする。
叩いて叩いて、現場を回してきた人たちが退場して、
叩いてきた人たちが勇躍リーダーになると、現場は固まる。
固まって、再び動き出すまで、恐らくは何年もかかる。

「部長の処方は今ひとつ」なんてえらそうに批判できた研修医の頃から、
その「今ひとつ」をようやく再現できるまで、結局10年近くかかった。

「無駄の多い」上司の処方箋というものは、一種の保険でもあった。
四方に保険を掛けるような、スマートでないやりかたというものは、重圧のかかる環境にあっても自身を自由にするために、
どうしても必要な「アソビ」であったのだけれど、当時の自分には、それが「無駄」に見えた。

削ってはいけないアソビは、素人には真っ先に削るべきものに見えて、
そこを削ると、戻すのにとんでもない時間がかかる。

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無駄を叩くのは気分がいい。必要な無駄に気がつくのには経験がいる。
無駄を叩く側からすると、必要な無駄をかばう人は「悪者」に見える。

論理はよくできていて、それ想定している範囲内であれば、
突っ込む場所もないのだけれど、
彼らが前提としている「絶対」が、しばしば絶対でなかったりする。

悪と叩く何かが、問題を常にちゃんと解決してくれていること」が、悪を叩ける前提になっていることがある。

世の中は「本当はこうあるべき」なのだけれど、
「悪い奴ら」が外面だけ取り繕っているから、
今の世の中がこれだけ腐っているにもかかわらず、一見するとそれなりに回って見える。

学校で学ぶべき、学校でしか学べない大切なものというのは、「負けかた」なのだと思う。

負けるというのは誰かの価値を受け入れることで、学びそのものでもある。

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誰かに「勝つ」、説得するのは難しいけれど、
誰かに「負けない」ための技術というものには典型的なやりかたがいくつかあって、
それを習得して再現するだけで、議論をグダグダにすることができる。

審判は、そこにいる誰もが納得する「負け」のありかたを提案してみせないと、
ゲームはつまらないものになる。

ゲームのルールや審判が競技者から信頼されて、初めて競技は成立する。

レジデント初期研修用資料(medt00lz.s59.xrea.com)より
お互いに納得のいく負けかたを審判が示すことができて、その判断が公正であると信頼されれば、競技者は気持ちよく負けられる。

いい審判にゲームのジャッジをしてもらうことで、
競技者は納得のいく負けかたを習得することができる。

お互いが認容可能な負けパターンを持っているなら、
競技には納得のいく落としどころが生まれる。
負けないことの価値は相対的に下がって、落としどころに向かう過程を楽しめる。

学校で討論を行う目的というものは、「負けかたを習う」というところにある。
勝つ工夫は誰でもするし、教えなくても努力するだろうけれど、
負けかたは教わらないと泥試合になるし、「負けない」協議をどれだけ重ねたところで、
負けかたは習得できない。

負けかたを知らないままで社会に出た人は、負けないことでしか自己を保てない。

あらゆる取引が泥試合になりかねないし、
負けられない人は学べないから、成長できない。
負けない人だって努力するけれど、無目的に積んだ努力は、成熟に結びつかない。

お金の話というものは、「良さ」や「正義」に比べれば浅いけれど、通じる範囲は広い。
 「お金の話ができる人」とは、少なくともお金という価値を土台にした会話ができて、
初対面の人間同士が分かり合うために、これは大切な入り口になる。

ボランティアはたしかに「無償」であるかもしれないけれど、
 違う言葉(=判断の基準)でしゃべる人を説得するためのコストは、
もしかしたら有償で誰かを雇うコストを上回る。

善意はすばらしい価値だけれど、人によって受け取りかたが多様すぎて、
善意という価値軸で初対面の誰かと語り合うのは難しい。

「ありがとう」という一言にしたところで、
その言葉にどれぐらいの善意価値を見いだすのか、
あるいはどの程度のサービスを受けてこの言葉を発するのか、人によってばらばらで、
その多様さは、価値のすばらしさとは対照的に、トラブルを増やしてしまう。


    日本語の使い方がおかしいです。 - 銘無き石碑