本田宗一郎 104

1906年11月17日 - 1991年8月5日
日本の実業家、技術者。輸送用機器メーカー本田技研工業(通称:ホンダ)の創業者。...-ウィキペディア

必死のときに発揮される力というものは
人間の可能性を予想外に拡大するものである。

人を動かすことのできる人は、他人の気持ちになれる人である。
そのかわり、他人の気持ちになれる人というのは自分が悩む。
自分が悩んだことのない人は、まず人を動かすことはできない。

百のうち九十九は失敗

やろうと思えば人間はたいていのことができると
私は思っている。

私は怒っても、その人間を憎むことはしない。
偽りのない気持ちを相手にぶつけることが大切。

私は自分と同じ性格の人間とは
組まないという信念を持っていた

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私はたえず喜びを求めながら生きている。
そのための苦労には精一杯に耐える努力を惜しまない。

私は不得手なことは一切やらず、
得意なことだけをやるようにしている。

われわれは勝負師ではない。
負けても何が原因で負けたのかを追求することに意義がある。

何かを深く信じれば、誰でも自分の中に大きな
力を見つけだし 自分を乗り越えることができる。

我々は、最初から苦しむ方向をとったから、
あとは楽になった。
真似をして楽をしたものは、その後に苦しむことになる。
研究者として大事なところはそこだろうと、
私は今でも考えている。
一度、真似をすると、永久に真似をしてゆくのである。
創意工夫、独立独歩、これをつらぬくにはたゆまぬ努力がいるし、
同時に、ひとりよがりに陥らぬための、
しっかりした哲学が必要となるわけだ。


    嫉妬ばかりしてる馬鹿は研究する能力が欠落しているのでしょう。 - 銘無き石碑
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行動にはつねに動機があり、目的がある。
動機が正義であり、目的が善であって、
その行動だけが悪だということは、
人間にはありえない。

私がやった仕事で本当に成功したものは、
全体のわずか1%にすぎないということも言っておきたい。
99%は失敗の連続であった。そして、
その実を結んだ1%の成功が現在の私である。

私の現在が成功というのなら、
私の過去はみんな失敗が土台作りをしていることになる。
私の仕事は失敗の連続であった。

私の最大の光栄は、
一度も失敗しないことではなく、
倒れるごとに起きるところにある。

私は、他人の真似をするのが大嫌いである。
私は真似が嫌いだから、
うちはうちの作り方でやろうということで苦労をしたわけである。
しかし、かれらに追いつくまでに時間をかけて努力したことが、
追いついてからのちの技術力の差になった。

私はうちの会社のみんなに、
「自分が幸福になるように働け」って
いつもいってるんですよ。
会社のためでなく、自分のために働けって。

自分はこれが好きだと思い、
自分はこれを職業としたいというものを発見させるのが、
教育の主眼のひとつであろう。


    名技術者は名教師でもあったか。さすがだ。 - 銘無き石碑

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社長なんて偉くも何ともない。課長、部長、包丁、盲腸と同じだ。
要するに命令系統をはっきりさせる記号に過ぎない。


    名言だ。
    うちの会社の幹部に聞かせてやりたい。
    技術屋はやはり違うな~。
    - いっちゃん

人間、生をうけた以上どうせ死ぬのだから、
やりたいことをやってざっくばらんに生き、
しかるのち、諸々の欲に執着せずに枯れ、
そして死んでいくべき、という考え方だ。

人間というものは、面白いものであり、
不思議なものであり、
必要のない人間というのはいないのである。

人生は“得手に帆あげて”生きるのが最上だと信じている

人生は見たり、聞いたり、試したりの3つの知恵でまとまっているが、
多くの人は見たり聞いたりばかりで一番重要な“試したり”を
ほとんどしない。
ありふれたことだが失敗と成功は裏腹になっている。
みんな失敗を恐れるから成功のチャンスも少ない。


    これは本当に良い言葉ですね。
    僕も「試したり」をほとんどしない。
    試したとしても、1度や2度の失敗だけであきらめてしまう。
    成功者の多くは何度も何度も試しているんですよね。
    うん、確かに失敗を恐れていない。
    深いな~ - 銘無き石碑

成功者は、例え不運な事態に見舞われても、
この試練を乗り越えたら必ず成功すると考えている。
そして、最後まで諦めなかった人間が成功しているのである。

耐える心に、新たな力が湧くものだ。
全てそれからである。
心機一転、やり直せばよいのである。
長い人生の中で、そのための一年や二年の遅れは、
モノの数ではない。