文化防衛論
われわれの考える天皇とは、いかなる政治権力の象徴でもなく、
それは一つの鏡のように、日本の文化の全体性と、連続性を映し出すものである
経済的繁栄の結果として得られた現状維持の思想は、一人一人の心の中に浸み込んで、
自分の家族、自分の家を守るためならば、どのようなイデオロギーも当面は容認する、
という方向に向かっている。
人々はつねられなければ痛さを感じないものである。
国際政治を支配しているのは、姑息な力の法則であって、
その法則の上では力を否定するものは、
最終的にみずから国家を否定するほかはないのである。
平和勢力と称されるものは、日本の国家観の曖昧模糊たる自信喪失をねらって、日本自身の国家否定と、暴力否定とを次第次第につなげようと意図している。
技術社会の進展が、技術の自己目的による
オートマティックな一人歩きをはじめる傾向に対抗して、
国家はこのような自己内部の技術社会のオートマティズムを制御するために、
イデオロギーを強化せねばならぬ傾向にある。
社会主義インターナショナルは単に多数民族、強力民族が少数民族をみずからの手中におさめるための口実として使われているにすぎない。
暴力と素手で立ち向かうことができないのは理性の特質であり、
そしてまた理性を何らかの後楯にしない時は、自己の正当性をみずから確認できないということは暴力の特質である。
そしてまた理性を何らかの後楯にしない時は、自己の正当性をみずから確認できないということは暴力の特質である。
暴力と理性とは、お互いにその正当性を奪い合う段階においてこそ同格であるが、
暴力は一つの理性的思想を持っていると主張することによって、
すなわち理性だけよりも強い
暴力は暴力自体が悪でもあり、善なのでもない。
それは暴力を規定する見地によって善にもなり、悪にもなるのである。
戦いはただ一回であるべきであり、生死を賭けた戦いでなくてはならぬ。
生死を賭けた戦いのあとに、判定をくだすものは歴史であり、
精神の価値であり、道義性である。
言論の自由は、人間性と政治との相互妥協の境界線にすぎぬ
言論の自由を保障する政体として、現在、われわれは複数政党制による
議会主義的民主主義より以上のものを持っていない。
われわれは強者の立場をとり、少数者から出発する。
日本精神の清明、闊達、正直、道義的な高さはわれわれのものである。
再び、有効性は問題ではない。
なぜなら
日本精神の清明、闊達、正直、道義的な高さはわれわれのものである。
再び、有効性は問題ではない。
なぜなら
われわれは、われわれの存在ならびに行動を、未来への過程とは考えない
(注)
「強者」は、学生の革命運動等を数を頼んだ弱者の群れとしてのこと。
「再び」とは特攻隊への評価に重ねての表現。
「強者」は、学生の革命運動等を数を頼んだ弱者の群れとしてのこと。
「再び」とは特攻隊への評価に重ねての表現。
われわれは戦後の革命思想が、
すべて弱者の集団原理によって動いてきたことを洞察した。
それは集団と組織の原理を離れえぬ弱者の思想である。
不安、懐疑、嫌悪、憎悪、嫉妬を撒きちらし、
これを恫喝の材料に使い、これら弱者の最低の情念を共通項として、
一定の政治目的に振り向けた集団運動である。
歴史の精華をここに具現し、伝統の美的形式を体現し、
自らを最後の者とした行動原理こそ、神風特攻隊の行動原理であり、
特攻隊員は「あとにつづく者あるを信ず」という遺書をのこした。
自らを最後の者とした行動原理こそ、神風特攻隊の行動原理であり、
特攻隊員は「あとにつづく者あるを信ず」という遺書をのこした。
むしろ国民が天皇を根拠にすることが反時代的であるというような時代思潮を知りつつ、まさにその時代思潮の故に天皇を支持するのである。