親鸞
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判決だけがすべてではない。
AERA Mook 49『親鸞がわかる。』(朝日新聞社,1999)P114
もし、私は悪いことはしないし、悪いことはいわない、
また、まちがったことをし、悪いことを思っても、自分のなかにはそれを改める力がある、
と信じている人がいるならば、その人には、「他人」は無縁であろう。
いや、およそ宗教というものとも、無縁であるにちがいない。
そうした人々は、道徳の世界で十分に満ち足りている。
AERA Mook 49『親鸞がわかる。』(朝日新聞社,1999)P114
人の自由意志は、結果を生む大切な原因であっても、一つの「縁」にしかすぎない。
それを、
あたかも唯一、絶対的な原因であるかのように考えるところに、自我特有の思いこみがある。
AERA Mook 49『親鸞がわかる。』(朝日新聞社,1999)P113
「縁」は、明確な原因と異なり、
人間にはその全貌をうかがうことができない、不特定な原因をいう。
したがって、人間からは偶然というしかない。
AERA Mook 49『親鸞がわかる。』(朝日新聞社,1999)P113
親鸞の言葉
人は「業縁」に縛られた存在なのであり、それが「凡夫」にほかならない。
AERA Mook 49『親鸞がわかる。』(朝日新聞社,1999)P112
親鸞によれば
自我の最大の問題は、自己の正当化にある。
AERA Mook 49『親鸞がわかる。』(朝日新聞社,1999)P112
自我をはっきり区別し、自己を貫いて生きてゆくこと、それが人生の要である。
AERA Mook 49『親鸞がわかる。』(朝日新聞社,1999)P112
「他力」のみが、「凡夫」をして「仏」への道を歩ませるのである。
AERA Mook 49『親鸞がわかる。』(朝日新聞社,1999)P112
自我は、しばしば、他人の功績を自分の功績と言い張って聞かないのである。
それが「煩悩」のすがたにほかならない。
親鸞によれば、自我の根深い自己主張こそ、「煩悩」の本質にほかならない。
AERA Mook 49『親鸞がわかる。』(朝日新聞社,1999)P112
自己への執着が、「煩悩」だと自覚されたとき、
そして、人はそのような「煩悩」から自由になることができない存在だと痛感されたとき、
自己を「凡夫」だと納得するのは容易となる。
AERA Mook 49『親鸞がわかる。』(朝日新聞社,1999)P112
豊かな才能も、自負心が過ぎると、人との摩擦を生じ、嫉妬を招きやすく、
それがまた競争心をかき立てて、争いのただ中に落ちることにもなる。
AERA Mook 49『親鸞がわかる。』(朝日新聞社,1999)P112
「他力」の仏教とは、「凡夫」という人間観を前提とする宗教であり、
そして、この「凡夫」の本質を、もっとも鋭く追及したのが、親鸞にほかならない。
AERA Mook 49『親鸞がわかる。』(朝日新聞社,1999)P111
「慈悲」は、平等に注がれてはじめて「慈悲」なのであり、
不平等な「慈悲」は、「慈悲」とはいえない。
AERA Mook 49『親鸞がわかる。』(朝日新聞社,1999)P111
本人にとっては「ありのまま」でも、他の人から見れば、その人に都合よく見えているだけ
AERA Mook 49『親鸞がわかる。』(朝日新聞社,1999)P111
親鸞はインタラクティブだ。
AERA Mook 49『親鸞がわかる。』(朝日新聞社,1999)P1
高史明:念仏の「まこと」がここにある。
金剛の真心、これを『真実の信心』と名づく。真実の信心は必ず名号を具す。
名号は必ずしも願力の信心を具せざるなり。
このゆえに論主建めに『我一心』と言えり。また『如彼名義欲如実修行相応故』と言えり
顕浄土真実教行証文類
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全六巻からなる浄土真宗の根本聖典である。
三界は虚妄にして但だ是れ一心の作なり
華厳経
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インドで伝えられてきた様々な経典が、3世紀頃に中央アジア(西域)でまとめられたも...