デイヴィッド・ヒューム 10
1711年5月7日 - 1776年8月25日
スコットランド・エディンバラ出身の哲学者である。ジョン・ロック、ジョージ・バークリーらに続き英語圏の経験論を代表する哲学者であり、歴史学者、政治哲学者でもある。生涯独身を通し子供もいなかった。...-ウィキペディア
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技芸はひと揃いの衣装を創るであろうが、天性は人間を創らねばならない
「随書ーエピクロス主義者」より
習慣は人間生活の最大の道案内である。
「人間悟性論」より
深い悲しみと失望が怒りを生み、怒りが妬みを、妬みが恨みを、そして恨みが再び深い悲しみを生む。それらがすべての循環の完結するまで尽きることはない
「人間悟性論」より
心は一種の劇場だ。底ではいろいろな知覚が次々に現れる。去っては舞い戻り、
いつの間にか消え、交じり合っては限りなくさまざまな情勢や状況を作り出す
「人間悟性論」より
徳ある目的への手段と考えられる。目的への手段はその目的が価値あるものである限りにおいてのみ、
価値を有する
「人間悟性論」より
理性は情緒の単なる奴隷であり、そうであるべきであり、
情緒に奉仕し、服従する以外の役目を望むことはけっしてできない
「人間悟性論」より
友人の自由な会話は、いかなる慰めよりも私を喜ばす。
「ラムジィ宛の書簡」より
すべての人間の口舌の断言を聞いてみるがよい。彼らの宗教的信条ほど確実なものはない。彼らの私生活を検討せよ。諸君は彼らがそれらの信条に最小の信頼さえおいているとはほとんど思えないであろう。
『宗教の自然史』より
哲学の議論において宗教や道徳への危険な帰結を口実として何かしらの仮説を論駁しようとすることより以上に普通であり、かくも非難されるべき推論の方法はない。何かしらの意見が不合理へと我々を導く時、それは確実に間違っている。しかし危険な帰結のために、その意見が間違っているということは確実ではない。
『人間本性論』より
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哲学の議論において、何らかの仮説を
「既存の宗教や道徳に帰結する危険な考えである」という理由だけで否定される事ほど、
ありふれていて、またかくも非難されるべき否定の根拠(=推論の方法)は他にない。
ある意見が論理的に不合理なら、それは確実に間違っている。
しかし、結論が危険な思想に帰結するからといって、
必ずしもそれが間違っているとは限らない。
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誰か、注釈よろ
- 銘無き石碑
例えば、「人間は利己的だ」という説は道徳的にはけしからん、あるべきではない話だ。でもだからといって、「人間は利己的だ」という説が嘘っぱちだという証拠にはならない。
こんな感じ? - 銘無き石碑
>「ある仮説は宗教的、道徳的にけしからん、あるべきではない」
的なレッテル貼りは、哲学的思考において最も非合理的であるということを言いたいのだと思う。
真に明晰な思考というものは、事実を歪曲せずに認識することがまず最初のスタートだと思う。 - 銘無き石碑