哲学の議論において宗教や道徳への危険な帰結を口実として何かしらの仮説を論駁しようとすることより以上に普通であり、かくも非難されるべき推論の方法はない。何かしらの意見が不合理へと我々を導く時、それは確実に間違っている。しかし危険な帰結のために、その意見が間違っているということは確実ではない。

『人間本性論』より
デイヴィッド・ヒューム

デイヴィッド・ヒューム 10

1711年5月7日 - 1776年8月25日
スコットランド・エディンバラ出身の哲学者である。ジョン・ロック、ジョージ・バークリーらに続き英語圏の経験論を代表する哲学者であり、歴史学者、政治哲学者でもある。生涯独身を通し子供もいなかった。...-ウィキペディア


寄せられたコメント(3)


    言い回しが分かり辛いけど分かった気がする ============== 哲学の議論において、何らかの仮説を 「既存の宗教や道徳に帰結する危険な考えである」という理由だけで否定される事ほど、 ありふれていて、またかくも非難されるべき否定の根拠(=推論の方法)は他にない。 ある意見が論理的に不合理なら、それは確実に間違っている。 しかし、結論が危険な思想に帰結するからといって、 必ずしもそれが間違っているとは限らない。 ============== 誰か、注釈よろ - 銘無き石碑

    要するに、「ある仮説は宗教的、道徳的にけしからん、あるべきではない」だからといって「この仮説は間違っている」とは限らないし、そういう風に考えちゃだめってことか。 例えば、「人間は利己的だ」という説は道徳的にはけしからん、あるべきではない話だ。でもだからといって、「人間は利己的だ」という説が嘘っぱちだという証拠にはならない。 こんな感じ? - 銘無き石碑

    うん。 >「ある仮説は宗教的、道徳的にけしからん、あるべきではない」 的なレッテル貼りは、哲学的思考において最も非合理的であるということを言いたいのだと思う。 真に明晰な思考というものは、事実を歪曲せずに認識することがまず最初のスタートだと思う。 - 銘無き石碑

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