アドルフ・ヒトラー 372

1889年4月20日 - 1945年4月30日
オーストリア及びドイツ国の政治家、軍人、画家。 文献によってはヒットラー、ヒットレル、ヘトレルとも表記される。 国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党・ナチス党)指導者。ドイツの首相・大統領を兼ねる「総統」として第一次世界大戦後のドイツを拡大政策に導き、ポーランド侵攻(白作戦...-ウィキペディア

この地上にはまったく巨大な面積の土地が、依然として利用されないまま残されており
開拓者を待ちわびている。
この土地は自然によってもともと特定の民族が将来利用するためにとっておかれたのではなく
それを獲得する力を持つ民族のため、そして懸命に開拓するための土地である。

自然は政治的境界を知らない。
自然は生物をまずこの地球上に置き、自由な競争を眺めている。
そして勇敢で勤勉で最も強いものが、自然の最愛の子供として、生存の権利を受け取るのだ。

この世界がいつかこの上もなく激しい人類の生存の闘争にさらされるだろうことに
疑いの余地は全くない。

勝者については二つの可能性がある。
近代民主主義の理念が勝利しすなわち最も人口が多い民族が勝つか、
それとも、自然本来の力の概念が勝利しすなわち最も残虐な意志を持つ民族が勝つか。

最後には自己保存欲だけが、永遠に勝利を占める。
この欲望の下では、愚鈍や臆病やうぬぼれの強い知ったかぶりがごちゃまぜになった
いわゆるヒューマニティは三月の太陽にさらされた雪のように溶けてしまう。

永遠の闘争によって人類は成長した。
永遠の平和において人類は破滅するのだ。

第四章 ミュンヘン より

    すばらしい!
    感動しました。
    こんな、すばらしい名言を発するとは - tensaisugiru

人類愛やら平和主義のような致命的な危険思想をわが民族に植え付けようと試み
またそれに成功しているのがユダヤ人であることは偶然ではない。

ユダヤ人は、かれの期待にそむかぬものだけを、よく知っている。

人口増加に対するには二つの道しかなかった。
過剰な数百万人を移住させるために新しい土地を手に入れて
自給の原則で国民を養っていくか、それとも外国の需要に応じて
商工業を興し、貿易によって生活をまかなっていくかであった。
この二つの道はあらゆる角度から検討され、ついに後者の採用が決定的になった。
しかし、より健全な道はもちろん前者であったろう。

領土を拡大することは、現在ではなく特に未来について考えるなら、メリットは果てしなく大きい。
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今日のわれわれの多くの悩みは、そもそも農村の民衆と都市の民衆との関係が
うまくいっていないことに由来している。

全国民の基礎としての健全な農民階級があれば、都市における社会問題も改善に向かうだろう。

ある民族がこの世界で他の民族より五十倍も多くの土地を与えられているのは
神の意志ではありえない、という観点に立たねばならない。

政治的な境界によって、永遠の権利の境界から遠ざけられてはならない。

もしもかつてのわれわれの祖先が、今日の我々のような平和主義的ナンセンスな
意思決定を行っていたならば、われわれは現在の三分の一程度の領土しか
所有を許されていなかっただろう。

示談が拒否されれば、拳骨でいかねばならない。

海外植民地は、ヨーロッパ人が大規模に移民するのに適さない以上
健全な領土拡大の目的にそぐわない。

ドイツにとって唯一の可能性は、ヨーロッパの中で新しい土地を獲得することだけであった。

われらが平和主義者といえども、最初の鋤がかつて「剣」と呼ばれていたとしても
東方のパンを食べることを拒みはしない。

第四章 ミュンヘン より
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もしもドイツが1904年の日本の役割を引き受けていたと想像してみたまえ。
その結果がどれほどドイツのためになりえたろうか。計り知れないほどだ。

海軍や海外植民地への道を捨ててイギリスと結び断固たる決意で東方に領土拡大すべきであり、また以前からそうすべきであった。

人々はなによりも戦いをおそれた。
それにもかかわらずついに最も不利なときに、戦争に巻き込まれたのであった。

ドイツとオーストリアの同盟を批判してのこと。
第一次世界大戦について述べている。

人々はいそいで運命から逃げようとした。そして運命にすぐ追いつかれたのだ。
世界平和の維持を夢見て、世界戦争に達したのだ。

もっと早く果敢な行動を起こしていれば別の結果が得られたであろう。
ドイツ外交のスローガンは、とっくの昔に「どんな方法を用いてもドイツ国民を維持する」というのではなくて、むしろ「あらゆる手段をつくして世界平和を維持する」だった。
その結果がこの有様である。

友情あふれる礼儀正しい態度で、平和的な心がけを絶えず強調しながら
人々が美しくもったいぶって語るように「諸民族の平和的競争」において
自分のバナナはとってくることができる、だから武器をとる必要はない、
と考えることができるのは子供だけである。

それにもかかわらずドイツが工業と世界貿易、海軍と植民地による政策を進めた場合には、人々は少なくとも、ある日この発展も最後は戦争になるだろうということを、はっきりと認識していなければならなかった。

われわれの正直さが他国にとって実は恐るべきものだ、などと
われわれ自ら大まじめに信じていたのは
われわれには何も見えていなかったということであった。

これによって大国の信用と、とりわけ小国の好意を容易に得られると思っていたのだ。

1914年の大戦がオーストリアで勃発し、したがってハプスブルグ家も
参戦せざるをえなかったのは不幸中の幸いであった。
もし逆にドイツで勃発していたなら
(オーストリアとの同盟関係にも関わらず)ドイツは孤立していただろうからだ。

国家は、特定の経済観や経済的発展と不可分ではない。
初めから誤った基礎に立っていない限り、経済は、国家の原因ではないし、目的でもない。

種の発展維持をより一層可能ならしめ、摂理によって既定された自己存在の目標を達成するための、心理的、精神的に同一な生物の運命共同体である。

モーゼの宗教は、ユダヤ人種保存の教説以外のなにものでもない。

アーリア人種の寛大さに付け込んでこのようなものをキリスト教の宗派の一つとして認めさせ続けてきたのはありえないほどのトリックと言えよう。

国家を形成し、維持することの本質が
経済と無関係であることは、次の事実からも明白だ。
すなわち、国家の内なる強さがいわゆる経済的発展と一致することはまずない。
むしろ、経済的繁栄は国家が滅亡に近づいていることの徴である、
と考えることもできる例証は多い。

人間の物質的利益が最も繁栄することができるのは
それが英雄的な徳の庇護のもとにある時だけである。
物質的利益を第一の目的に持ってくるならば、
たちまち自己存在の基礎を破壊することになる。

ドイツでは、力の政策が高まったとき、いつも経済も隆盛になりかけたが
経済がわが民族の生活の唯一の内容となって、それによって理念的徳性が窒息したときは、ふたたび国家は崩壊し、やがて経済も巻き込まれたものである。

人間は決して経済のために一身を犠牲にしない、すなわち人間は
商売のために死ぬものでなく、ただ理想のために死ぬものだ

人間は、己の経済的利益のために戦うことにした途端
できるかぎり死を避けるものである。
というのは、死はかれがこの戦いの報酬を享受する機会を取り上げてしまうからだ。

わが子を助けようとする気づかいは、弱々しい母をすら英雄ならしめる。
そして種とそれを庇護する家庭あるいは国家を維持するための闘争のみが
いつでも男子を敵の槍に立ち向かわせるのだ。

第四章 ミュンヘン より

国家を形作る力とは現実には何であるか、と問うならば、ごく短い言葉に要約しうる。
すなわち全体のために個人を犠牲する能力と意志である。

このことからも、国家が経済を第一義とすることはできないのは明らかだ。

当時わたしは兵士だった。
政治を語ろうとは思わなかった。また実際に、そのような時ではなかった。
今日でもわたしは、最下級の輜重兵であろうと祖国に立派に奉仕し続けた点において
第一級のいわゆる「代議士」より上だったと確信している。
わたしはこれらの饒舌家を、この時ほど憎んだことはない。
というのは、何かいうべきことを持っている真の人間は、面と向かって敵に叫ぶか
さもなくば目的にかなうように弁舌の才は家に置いて
黙々とどこかで義務を果たしていたからである。
然り。わたしは当時これらすべての「政治家」を憎んだ。
わたしにその権力があったなら、代議士の塹壕歩兵大隊を作ってやったであろう。

そうすればかれらは、まじめな、正直な人たちをおこらせたり、害したりせずに、好きなだけしゃべることができただろうに。