遺書
- 全7件を表示
愛児よ
若し御許が男子であったなら御父様に負けない立派な日本人になれ
若し御許が女子であったなら気だてのやさしい女性になって呉れ
そして御母様を大切に充分孝養をつくしてお呉れ
命名 倉元宏/僚子
昭和二十年五月十日出撃前夜
出撃前夜に書いた遺書。倉元の妻は当時妊娠中だった。
倉元利雄
1
昭和期の陸軍軍人。第六十振武隊所属、階級は少尉、昭和20年5月11日出撃し沖縄上...
人間は、如何にして生きるかということよりも、むしろ如何にして美しい死に方をするかを、
探し求めている。
島 澄夫
1
海軍少尉、神風特攻隊隊員。昭和20年4月16日、南西諸島海域にて戦死。享年24。...
遠い祖国の若き男よ、強く逞しく朗らかであれ。
なつかしい遠い母国の若き女たちよ、清く美しく健康であれ。
遺書の最後の文章より
石田正夫
1
海軍軍属。1944(昭和19)年8月8日、グアム島にて戦死、享年38。靖国神社合...
実際討つべきを討たず、うたいでいいものを討ってしまった。
実際弱いのにはこりた、今度は強い強い人に生まれてこよう。
実際僕も不幸な人生だった。今度は幸福に生まれてこよう。
津山30人殺しを決行したのち、近くの民家により、紙と鉛筆を要求、民家の子供に、偉くなれよ、と優しい笑顔で声をかけ山へと逃亡。
懐中電灯、鉢巻き、日本刀一振り、匕首2口、自転車用ナショナルランプ、地下足袋を傍らに置き自らの命を絶った。
懐中電灯、鉢巻き、日本刀一振り、匕首2口、自転車用ナショナルランプ、地下足袋を傍らに置き自らの命を絶った。
都井睦雄
1
1917年、(大正6年)3月5日、岡山県苫田郡加茂村大字倉見に生まれた。 幼少...
ながい間、いろいろ親切にして頂いたことを嬉しく思います。
僕はいま誰とも、さりげなく別れてゆきたいのです。
妻と死に別れてから後の僕の作品は、その殆どすべてが、
それぞれ遺書だったような気がします。
原民喜
2
日本の小説家、詩人。 1945年8月6日の広島の原爆により被爆。
幸吉はもうすつかり疲れ切つてしまつて走れません
何卒お許し下さい 気が休まることもなく御苦労
御心配をお掛け致し申しわけありません
幸吉は父母上様の側で暮らしとうございました
円谷幸吉
2
日本の陸上選手。 27歳の若さで自殺。
「成果がなければ 凡てが無駄であると論ずるものは
人の美しさ 日本の伝統を 知り得ぬ者であろう」
(特攻隊 高久健一命)
高久健一
1
神風特攻隊員 昭和20年3月11日敵艦隊に突入し特攻戦死。享年22歳。東北大学...
サッカーでも、球を蹴りながらゴールへ向かうだろう。
たとえゴールに入らなかったり、途中で敵に球を奪われたからといって、それが無駄であるといえるか?
常にゴールへ向かうからこそ、チャンスが来た時に物にできるというもの。その精神こそ美しいと言ってるのだろう。
- 銘無き石碑