ゲオルギウ 6

ルーマニアの作家 本名はコンスタンティン・ヴィルヂル・ゲオルギウ

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女性の共通性として、たとえ自分を愛する男が野獣のような人であろうとも、
愛され、崇められれば無関心ではあり得ない

「第二のチャンス」より

いかなる不幸の中にも幸福がひそんでいる。どこに善いことがあり、どこに悪いことがあるのか、われわれが知らないだけだ

「第二のチャンス」より

いかなる時でも、人間のなさねばならないことは、
世界の終焉が明日であっても、自分は今日、りんごの木を植えることだ

「第二のチャンス」より

    HP「ものがたり通信」(http://www.5f.biglobe.ne.jp/~tsuushin)の「8.真実を求めて」の中で、この名言のルーツの探求についての一文を草しています。C.V.ゲオルギウが、小説『第二のチャンス』(筑摩書房、1953年)で述べているこの言葉は、マルチン・ルターが言った言葉として紹介してあり、訳文は精確には「どんな時でも人間のなさねばならないことは、」 「たとえ世界の終末が明白であっても、自分は今日リンゴの木を植える……」となっていて、若干、異なります。「どんな」「終末」「明白(めいはく)」「リンゴ」「ことだ」が表記上、食い違う。「明白(めいはく)」については、訳書のドイツ語原綴りに「Morgen(明日)」とあるので、本来、「明日(あす・あした)」とすべきことがわかります。多くの類似の文は、「明日(あす・あした)」を採用しています。原書の訳文が「明白(めいはく)」であるのは、フランス語の訳文としては「明白(めいはく)」が正しいためかもしれません。ここは、フランス語の原書の綴りの確認が必要でしょう。まったく、「めいわく」(!)な話ですね。ともあれ、この言葉は、マルチン・ルターの言葉とも確定できず、1944年10月のドイツ・ヘッセン教会の回状にルターの言葉として出てくるのが初出のようで、ルターに帰せられている言葉であり、C.V.ゲオルギウが小説で引用して、知られるようになったというわけです。詳しくは、「真実を求めて」をごらんください。 - 柴田 昭彦

    ゲオルギウの『第二のチャンス』のフランス語の原書(1990年発行)が入手できました。フランス語原書の該当箇所(443ページ)には、demain(ドマン) が使われており、これは英語の tomorrow(トゥモロウ)の意味です。この結果から、訳書(筑摩書房、1953年)にあった「明白」は、単なる誤植であり、「明日」が正しいことが「明白」となりました。詳細は、「ものがたり通信」の「真実を求めて」に載せました。 - 柴田 昭彦

人間はただひとつの次元、すなわち社会的次元に還元されてしまった。
技術社会は人間を知らない。社会は市民という抽象的な形でしか人間を認識しない。

「二十五時」より

孤独はこの世で最も怖ろしい苦しみだ。どんなにはげしい恐怖にも、みんなが一緒なら堪えられるが、孤独は死に等しい

「第二のチャンス」より

女の祖国は若さです。若さのあるときだけ、女というものは幸せなのです

「第二のチャンス」より
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