沖縄

沖縄の古老たちの言葉

陸と森と畑がハゲたら海もハゲる

AERA Mook 46『新環境学がわかる。』(朝日新聞社,1999)P27

トースト娘ができあがる

眞木準 5

1948年生まれ。コピーライター。

小林よりのり責任編集『国民の遺書 「泣かずにほめて下さい」靖国の言乃葉100選』(産経新聞出版,2010)231p

母:今日はなぜ少ししか食べないの?
仁科:おかずが沢山あるのでね、それにぼくも大分大きくなったんだから、
そう何時までも大食いぢゃないんだよ

【昭和三十九年三月靖国神社社頭掲示】
仁科関夫 6

日本の海軍軍人。海兵71期。太平洋戦争(大東亜戦争)の末期、人間魚雷「回天」を創...-ウィキペディア

小林よりのり責任編集『国民の遺書 「泣かずにほめて下さい」靖国の言乃葉100選』(産経新聞出版,2010)214p

悲壮なる祖国の姿を眺めつつ余は行く。全青春を三十日間にこめて、人生駆け足に入る。

【昭和四十二年三月靖国神社社頭掲示】
悲壮なる祖国の姿を眺めつゝ余は行く。全青春を三十日間にこめて、人生駆け足に入る。
岡部平一 2

旧海軍少尉 神風特攻隊第二七生隊 昭和20年4月1日沖縄にて特攻戦死。享年23歳...

かねてより祈りし時に今會ひて心の中ぞうれしかりける

かねてより 祈りし時に 今会いて 心の中ぞ うれしかりける
大東亜戦争殉難遺詠刊行会出版 大東亜戦争殉難遺詠集(絶版)より。
渡辺利久 1

旧陸軍中佐 義烈空挺隊 昭和20年5月24日沖縄飛行場に強襲、戦死。

咲くときのものの数には入らねど
散るにはもれぬ我が身なりけり

咲くときの ものの数には 入らねど 散るにはもれぬ 我が身なりけり
大東亜戦争殉難遺詠刊行会出版 大東亜戦争殉難遺詠集(絶版)より。
横瀬健一 1

学徒出陣 沖縄方面にて戦死。現青山学院大学出身。

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大君の爲捧げし我が命
散りてぞ香る特攻の華

大君の 為捧げし 我が命 散りてぞ香る 特攻の華
大東亜戦争殉難遺詠刊行会出版 大東亜戦争殉難遺詠集(絶版)より。
吉田雄 1

神風特攻隊 昭和20年5月11日沖縄方面にて特攻戦死。享年17歳。

大君の御楯となりて征かむ身の
心の内は楽しくぞある

大君の 御楯となりて 征かむ身の 心の内は 楽しくぞある
大東亜戦争殉難遺詠刊行会出版 大東亜戦争殉難遺詠集(絶版)より。
森稔 1

回天特攻隊 昭和20年5月11日沖縄方面にて特攻戦死。享年17歳。

水漬くも燃ゆるも何をか悔いざらん
君に捧げし命なりせば

水漬くも 燃ゆるも何をか 悔いざらん 君に捧げし 命なりせば
大東亜戦争殉難遺詠刊行会出版 大東亜戦争殉難遺詠集(絶版)より。
広森達郎 1

旧陸軍兵士 昭和20年3月沖縄にて特攻戦死。


    沖縄での地上戦開始前に行なわれた、陸軍武剋飛行隊(広森達郎中尉以下9名)の特攻です。結構有名でご存知の方もいると思います。が、この意味や意義を深く洞察して書いた文献の一節をご存知でしょうか。それは作家の伊藤正徳氏の『帝国陸軍の最後』全五巻のなかの第四巻の「特攻編」の中の文章です。ぜひ多くの方に知っていただきたいと、少し長いですが一部引用します。
    *以下引用
    日本が正式に航空戦(沖縄戦における)を開始する以前、偶然にも、沖縄本島に飛来した関東軍飛行隊の一部による「体当たり攻撃」が敢行された一戦を紹介しておこう。それは中尉広森達郎を長とする「武剋飛行隊」の九機であって、南西方面増援の第一陣として、(昭和20年)三月二十六日に沖縄本島に着陸したものであった。(目的地は台湾)
     三月二十三日、嘉手納海岸沖に現れた米国の艦隊は、威力偵察を目的とした第一陣であって、空母、戦艦等三十余隻から成り、艦砲射撃と爆撃とを連施して日本軍の反応を知ろうとつとめていた。航空参謀、中佐神直道は、この機会こそ敵艦隊に航空攻撃をくわえる作戦上の神機であると信じ、九州からの出撃を要請したが、兵力足らずして実現を得ず、ただ、適時、航空攻撃を指揮すべしという紙上命令だけを受けていた。そこへ、期せずして第二航空軍から台湾へ増派される武剋飛行隊の第一陣が途中着陸したのであった。
     神中佐は、その広森部隊だけでも投入して、眼前を遊弋中の敵艦隊に一撃をくわえ、彼の計画を第一日において攪乱したい衝動に駆られ、その夕、北飛行場に急行して、広森以下の九勇士と会合し特攻敢行の要請を述べて、彼らの意中をただした。精気横溢するも沈着の度を失わない青年将校広森達郎は、「やってみましょう」と簡単率直に答えた後、八名の部下を集めて静かに言い渡した言葉は次の通りであった。
    「いよいよ明朝は特攻だ。みないつものように俺について来い。そこでつぎのことだけは約束しておこう。今度生まれ変わったら、それがたとえ蛆虫であろうとしても、国を愛する忠誠心だけは失わぬようにしよう」
    一同は、「ハーイ」と声高らかに答えるのであった。なんという尊い一言であったろう。十時間の後には死んでゆく若人たちが、死んだ後も愛国の誠心を持ちつづけようとするその純正無垢の精神には、強気の神参謀も胸を突き刺されて、思わず涙を流してしましった。とその作戦日誌に認めている。筆者もまた、この一言は、日本の歴史のために書き残し、そうして本論の他の部分が消え去っても、この一言だけは残しておきたいと祈りつつこの戦記を書いている。
    国を愛する国民の心があって、国ははじめて独立もし、栄えても行く。それを失った国は表面の盛況はどうであろうとも、その瞬間から頽廃の歩を辿るのだ。その愛国心の要は、戦争と平時とを通じてなんら変わるところはない。広森が平和な今日に生きていたなら、おそらく愛国の若い詩人になっていたであろう。前記の短い一言は、それほど感銘的な印象を永くわれわれの心に刻むのである。
     広森たちは爆装も知らず、また、艦船攻撃の要領は何も教えられていなかった。特攻の議が決まると、一同は、「参謀殿、やり方を教えて下さい」と、言いながら、神中佐の膝もとに集まった。そこで神は(中略)〔やり方を〕詳細に説明し、夜半、後ろ髪を引かれながら北飛行場を辞した。翌二十七日黎明、牛島中将以下軍司令部の要員全部は、首里山上に集合して、武剋飛行隊の特攻を五千メートルの眼前に観望した。指示された発信時刻と寸秒の狂いもなく、三機編隊の三郡は、まず、首里山の真上に飛び、翼を振って別れを告げた後、西方海上に直角旋回して敵艦船群に突っ込んで行った。(後略)
    *出典は光人社平成10年刊行より
    今不況といわれる中でも、多くの人々は衣食住には不自由はありません。戦渦にも晒されてもいません。しかし、国の独立を維持するに不可欠の防衛費は年々削減、それに比例するかのように尖閣、竹島、北方領土等領土や国の安全は危殆に瀕しつつあります。また、政治家は国のためと言いながら保身的行動が目立ち、青少年のいびつな犯罪は(大人の一部も)の続発、先進国で突出して自殺者は13年連続3万人超え等々、今の日本は盛況そうに見えて確実に頽廃の歩を辿ってるようにしか見えません。著者は今の日本を見透かしたように広森中尉らの遺志、精神に学べ!愛国心を失うな!それが国の根本であるとの警鐘と日本人の覚醒を促しているのです。
    他にも、こうした魂を揺さぶるような至玉の言葉も散見できます。政治や教育など制度改革の運動も大切ではありますが、私たち一般の人々でも日々の生活のなかで、日本人としての誇りが甦り明るく元気が溢れでるような、特攻隊他の英霊の手記や遺書などを取り上げた良書を読み、国を愛する心を育む先人たちの言葉を、家族や友人など身近な人たちへ伝えて行くことは出来ると思います。そこから自分たちの住む町や地域から日本の再生復興への歩みは始まるのだと思います。直情的で纏まりのない文章で失礼しました。拝
    - 愛媛松山 S

    特攻隊他の英霊の手記や遺書をマスコミなどで大々的に取り上げないのは、世論において、やはりアメリカを刺激して、敵対関係になってはまずいという危機感が国家に働いているからだと思われます。
    また、アメリカの軍事的・経済的・文化的圧力そのものが一般人の知らないところで働いているからだと推測します。
    敗戦国である日本がアメリカに敵意を抱くのは当然の感情の流れだと思われます。
    だからこそ、そうさせないために、アメリカはあらゆる手段を駆使し、日本が戦後の自虐的な歴史観を受け入れさせました。
    日本のアメリカに対するテロや暴動が起こらないから、アメリカはきっと日本を支配できていると思い込んでいると思います。
    また、日本の現状に大変満足していると思います。
    勝っていると思っているはずです。
    もし、、日本の世論が愛国心を高め、自国に誇りを持ち、真の独立を勝ち取りたいと願うようになれば、曖昧なまま世論がまとまらないから保てていた外国との力関係が必ず問題視されます。
    すると、アメリカが困るのです。
    いやアメリカは大して困らないかもしれません。
    日本は外国との緊張関係を避ける道を選び、戦後の経済成長を果たし、福沢諭吉が待ち望んだ先進国の地位を築き、一応国家としての目的を達成しているのです。
    今のところ、安全で居心地がいいのではないでしょうか?
    日本は表面上は戦力を保持しない真に民主的で進歩的な憲法を持っていることを誇っているように見せかけています。
    でも、実は常に緊張関係を強いられる独立国であるよりも、徴兵制がなく、自殺しないかぎりは長寿が保証された国の在り方に安住しているのが多数派の意見ではないでしょうか?
    確かにアメリカに戦争で勝ったベトナムは国としてかっこいいと思いますが・・・
    雑感を述べました。
    論点が外れていたら申し訳ありません。
    特攻隊の英霊の精神は、社会に対して問題意識を持っている、いわば、敏感で目覚めている人であれば、平和な現在であっても心の中に常にあると思います。
    教えられなくても自然に備わるものだと考えますがどうでしょうか? - 夏みかん

咲く櫻風にまかせて散りゆくも
己の道ぞ顧みはせじ

咲く桜 風にまかせて 散りゆくも 己の道ぞ 顧みはせじ
大東亜戦争殉難遺詠刊行会出版 大東亜戦争殉難遺詠集(絶版)より。
藤村勉 1

神風特攻隊 昭和20年4月6日沖縄方面にて特攻戦死。享年21歳。

君が代は千代万代とゆく春も匂ひ忘るな若桜花

君が代は 千代万代と ゆく春も 匂い忘るな 若桜花
大東亜戦争殉難遺詠刊行会出版 大東亜戦争殉難遺詠集(絶版)より。
棟方哲三 1

旧陸軍大尉 義烈空挺隊 昭和20年5月24日沖縄飛行場に強行突入後、戦死。

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君の爲盡せと育てし両親は
此世にも無き宝なりけり

君の為 尽せと育てし 両親は 此世にも無き 宝なりけり
大東亜戦争殉難遺詠刊行会出版 大東亜戦争殉難遺詠集(絶版)より。
馬場洋 3

旧陸軍特攻隊 大尉 昭和20年4月9日沖縄方面に特攻戦死。


    私の祖父の弟です - 馬場史恵

    私の祖父の弟でもあります。 - 米倉滋門

    今の時代ですから色々意見はあるでしょうが、
    誰が何を言おうと私は生涯祖父の弟を誇りに思います。 - 米倉滋門い

いざ行かん逆まく怒濤のり越えて
あだども討たん南に北に

いざ行かん 逆まく怒濤 のり越えて あだども討たん 南に北に
大東亜戦争殉難遺詠刊行会出版 大東亜戦争殉難遺詠集(絶版)より。
内藤善次 1

旧陸軍兵 昭和20年4月沖縄にて特攻戦死。

散る櫻殘る櫻も散る櫻
散つて護國の花と惜しまん

散る桜 残る桜も 散る桜 散つて護國の 花と惜しまん
大東亜戦争殉難遺詠刊行会出版 大東亜戦争殉難遺詠集(絶版)より。
中西達二 4

旧海軍中尉 神風特攻隊 昭和20年4月12日沖縄にて特攻戦死。享年23歳。

この日をばかねて覚悟の重信が櫻花とは母も泣かなん

この日をば かねて覚悟の 重信が 桜花とは 母も泣かなん
大東亜戦争殉難遺詠刊行会出版 大東亜戦争殉難遺詠集(絶版)より。
中別府重信 1

神風特攻隊員 昭和20年4月16日沖縄方面にて特攻戦死。

打捨てき此の世の未練なきものと
夢にぞ思ふ父母の顔

打捨てき 此の世の未練 なきものと 夢にぞ思ふ 父母の顔
大東亜戦争殉難遺詠刊行会出版 大東亜戦争殉難遺詠集(絶版)より。
永田吉春 5

神風桜花特攻隊 昭和20年5月4日沖縄方面にて特攻戦死。享年19歳。

いざ征かん御楯と薫れ櫻花
雲むす屍と咲くぞ雄々しく

いざ征かん 御楯と薫れ 桜花 雲むす屍と 咲くぞ雄々しく
大東亜戦争殉難遺詠刊行会出版 大東亜戦争殉難遺詠集(絶版)より。
竹田源三 1

旧陸軍伍長 特攻隊 昭和20年5月28日沖縄周辺にて特攻戦死。

大君の盾となる身の感激は唯ありがたの涙なりけり

大君の 盾となる身の 感激は 唯ありがたの 涙なりけり
大東亜戦争殉難遺詠刊行会出版 大東亜戦争殉難遺詠集(絶版)より。
長勇 2

旧陸軍中将 昭和20年6月23日沖縄戦投降前に自刃。享年51歳。[[牛島 満]]...

たらちねの母の教を守りつゝ
敵艦と共にわれは散り征く

たらちねの 母の教を 守りつつ 敵艦と共に われは散り征く
大東亜戦争殉難遺詠刊行会出版 大東亜戦争殉難遺詠集(絶版)より。
高野次郎 3

旧海軍少佐 神風桜花特攻隊 昭和20年5月11日沖縄にて特攻戦死。

神ならで此の御聖戰(みいくさ)の決知らず
護国の神となりて決せん

神ならで 此の御聖戦(みいくさ)の 決知らず 護国の神と なりて決せん
大東亜戦争殉難遺詠刊行会出版 大東亜戦争殉難遺詠集(絶版)より。
鈴木重幸 5

旧陸軍大尉 特攻隊 昭和20年5月28日沖縄周辺にて特攻戦死。享年23歳。

咲く花の春の盛りを待たずして
嵐に散るも唯君の爲

咲く花の 春の盛りを 待たずして 嵐に散るも 唯君の為
大東亜戦争殉難遺詠刊行会出版 大東亜戦争殉難遺詠集(絶版)より。
高島昭二 1

神風桜花特攻隊 昭和20年5月4日沖縄方面にて特攻戦死。享年18歳。


    私は、髙嶋昭二の遺族です。
    叔父の最後と思われる遺詠をウエブ石碑に掲載して頂きありがとうございます。
    なぜ、自ら志願して故郷から遠く離れた地を飛び立つ時や、敵艦に向かうその時はどのような心情だったのか私にはわりませんが、遺族としてこれからも墓参を続けようと思っております。
    祖母から聞いた話では、叔父は筆まめでよく手紙を書いていたと聞いておりました。
    私も幼い頃叔父からの最後の手紙を見た事があります。
    明日、飛び立ちます。との内容でした。
    南洋の海の底で眠っている叔父へ
    夭逝の いのち 珊瑚に 抱かれて - 遺族

    どうか、ご遺族様がこの先苦しみなく平穏な生活を送れることを願います。
    勝手な話になりますが、私も、高嶋さんの安らかな眠りを祈らせていただけませんか。 - 銘無き石碑

大空に醜の御楯とわれは征く
忠義の途(みち)を考と思ひて

大空に 醜の御楯と われは征く 忠義の途(みち)を 考と思いて
大東亜戦争殉難遺詠刊行会出版 大東亜戦争殉難遺詠集(絶版)より。
柴田敬禧 2

旧海軍少佐 神風特攻隊 昭和20年5月11日沖縄にて特攻戦死。

今年なり今年こそはとおもふなり
若き櫻と咲き散るこの年

今年なり 今年こそはと おもうなり 若き桜と 咲き散るこの年
大東亜戦争殉難遺詠刊行会出版 大東亜戦争殉難遺詠集(絶版)より。
芝崎茂 5

旧陸軍特攻隊 昭和20年3月26日沖縄方面にて特攻戦死。享年24歳。

海原に神の潮をわきおこし
巻きて沈めん醜の敵艦

海原に 神の潮を わきおこし 巻きて沈めん 醜の敵艦
大東亜戦争殉難遺詠刊行会出版 大東亜戦争殉難遺詠集(絶版)より。
小森一之 1

旧海軍兵士 昭和20年7月28日沖縄海域にて戦死。享年19歳。

大君の御はたのもとに死してこそ人と生れし甲斐ぞありける

大君の 御はたのもとに 死してこそ 人と生れし 甲斐ぞありける
大東亜戦争殉難遺詠刊行会出版 大東亜戦争殉難遺詠集(絶版)より。
太田実 2

太田 實 旧海軍少将 昭和20年6月13日海軍沖縄方面根拠地隊司令官として沖縄防...