田中角栄 9

1918年5月4日 - 1993年12月16日
日本の政治家、建築士。衆議院議員(16期)、郵政大臣(第12代)、大蔵大臣(第67・68・69代)、通商産業大臣(第33代)、内閣総理大臣(第64・65代)等を歴任した。...-ウィキペディア

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「国民のための政治がやりたいだけだ。
蟷螂の斧と笑わば笑え。」

田中角栄を売り込む為に作られたエピソードに出てくる台詞。
政治家は地域と産業界の代理人に過ぎない。

時間の守れん人間は何をやってもダメだ。

分かったようなことを言うな。気の利いたことを言うな。そんなものは聞いている者は一発で見抜く。借り物でない自分の言葉で、全力で話せ。そうすれば、初めて人が聞く耳を持ってくれる。

土建屋をやっていた頃、角栄は地元を有力者の饗応の為に女を用意して抱かせていた。
ある日、一人の男が女を抱かずに帰ろうとしたのので角栄は気にせずに抱いていけと言った。
するとその男が「いや、俺は男が好きなんだ」と言った。そこで角栄はこう言った。

そうか。なら俺を抱け


    これはww - 銘無き石碑

    ご厚意は光栄ですが、遠慮します。 - 銘無き石碑
第9章:心を研ぎ澄ます

一般論でいえば、男は信用できない奴が多い。
カネを渡し、酒を飲ませると、すぐ転ぶ。
そこへいくと女は別だ。一度、この男と決めればテコでも動かない

早川茂三『オヤジの知恵』(集英社)
澤口俊之『痛快!頭を良くする脳科学』(amazon.co.jp)(集英社インターナショナル,2002)P165
1973年日ソ首脳会談。クレムリン宮殿でブレジネフ書記長が大きなシベリア周辺の地図を示しながら「ここには有望な資源があって……」と説明した。日本にお金とリスクを取ってもらい、資源開発をしたい意図が見えた。

書記長自らご説明いただいて痛み入ります。しかし、無資源国日本の首相は、シベリアのどこに何があるかは承知しております

そして「とくに関心があるのはチュメニ油田の開発です」などと伝え、「しかし、進めるには、北方四島の問題を解決しなければ」と返還交渉を求めた。10月10日の日ソ共同声明は「大戦の時からの未解決の諸問題を解決」して平和条約を結ぶ意義を確認。ただ、具体的に「領土」には触れていない。 田中さんが「諸問題には北方領土も含まれているか」と食い下がった。そのときブレジネフは「ダー(その通り)」。これが歴史的発言ということになった。 しかし後々に先方は「議事録にも残っていない」と言い張った。
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1973年10月。第4次中東戦争が勃発。11月、米国のキッシンジャー国務長官が緊急来日した。田中角栄首相と会い、「アラブ寄りの政策をとるな。少なくとも中立でいてくれ」と求めた。

日本は油を中東に依存している。もしこの油を米国が肩代わりしてくれるのなら、あなたの意思に従いましょう

もちろん無理な注文なので、キッシンジャーはうなずけない。「そうでしょう。本件に関しては、日本はアラブ寄りということでいく」ということになった。
1971年日米繊維交渉。日本の対米黒字が膨らみ、政治問題に発展。前任の宮沢喜一通産相時代に、交渉は暗礁に乗り上げていた。 9月に渡米し、田中さんはニクソン政権のジョン・コナリー財務長官と向かい合う。繊維産業が多いテキサス州出身の大変な論客。大きな体で机をドンドンたたいて貿易不均衡を責め、「政府による思い切った規制を」と迫った

確かに繊維貿易は日本が黒字になっておる。しかし、貿易は多国間でバランスをとる話だ。そういう自由貿易論の理屈は、あなた方から教えてもらったんだ

ところが帰国直後、米国から「対敵通商法を発動し、一方的な輸入制限もあり得る」との情報が舞い込んだ

忙しくもないのに自分が官邸にいたら、彼ら(官邸職員)を拘束してしまうので問題だ

首相時代、田中さんは午後5時ごろには砂防会館にあった個人事務所に移動していた