桂枝雀 11

1939年8月13日 - 1999年4月19日
桂 枝雀(かつら しじゃく)は上方落語の名跡。2代目の死後は空き名跡となっている。 なお、以下の各代以外にも、昭和10年代の寄席ビラに枝雀の名が確認できる。色物だったとされているが詳細は不明。 本項を参照。 3代目桂米朝門下。前名は10代目桂小米。本名: 前田達。59歳没。...-ウィキペディア

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私の中に私を見てる枝雀がいて、
これが私になかなかオーケーを出してくれなかったんです。
それがこのごろはだいぶオーケーに近づいてきた。
見ててください。もうじき自分の落語を完成させます。

桂枝雀は、落語の可能性を追求していた。
特に晩年は新しい会に若手以上に意欲を燃やし、
上記の言葉と、
「一分でも笑いがとぎれると我慢ができない」
といった。
ところが97年1月頃、
桂小米時代よりも重い鬱にかかり、
99年3月13日夜、
突然自殺をはかり、窒息状態で病院に運び込まれ、
4月19日午前3時2分、
心不全で死去した。
昏睡の間、
不調の時の暗い顔ではなく、
規則正しい寝息を立て、
すべてを満足しきったような穏やかな顔をしていたという。

笑いとは
緊張の緩和によって生まれる

桂枝雀は、緊張していた場が緩和することによって笑いが生まれるという緊張の緩和理論、そしてすべての落語のサゲ(オチ)は4つ、「ドンデン」「謎解き」「へん」「合わせ」に分類できるサゲの4分類の、独自の落語理論を唱えた。これについて、同病、同業ともいえる作家中島らもは、笑いを理論的に追求しすぎることは精神衛生上好ましくないとし
将来自殺の可能性も含め憂慮していた。

ずっと笑いの仮面をかぶり続ければ、いつかその仮面が自分の顔になる

桂枝雀は1973年のある日、重いうつ病を発症した。
家庭ができて将来に対して過度なプレッシャーを感じ、また自分の芸に対しても極限まで思いつめるところがあったという。全ての事が悪い方にいくように思えて仕方なく、食事も取らず、風呂も入らず、顔は青ざめ、家に篭りっきりになってしまった。夫人には「自分は幸せにしてやれないから別れてくれ」と泣いて頼み込むこともあったという。いくつかの病院を回ったが、処方箋を出されるばかりで快方に向かわなかった。最後にいった病院で「今必要なのは休息です。薬はいりません。自分が不安に思っていること全て話してください。そしてまた不安になったらいつでも来てください」と言われ、胸がすーっとなったという。3ヶ月間のブランクを経て、小米は高座に復活した。そして、それまでは私生活で陰気に過ごしていた時も、この言葉を高座で話し、常に陽気で明るくいることを決意した。
その高座でその後
「うちに倅が二人います。この間『どう、お父さんの仮面、だいぶ身についてきたでしょう』って言うたら、下の方の倅から『うん、かなり良くなりましたね。でも、チラチラ素顔が見えますよ』って言われまして、もう少し修行しなければならないと、思ったんです」
と続けて語ったという。
わたしは、ひとさんを笑わせているつもりはありません。
と言って、笑われているつもりはありません。

お客さんといっしょに笑っているつもりです

上方の爆笑王と呼ばれた桂枝雀。
いつも客席を笑いの渦に引き込める抑揚、間、口調はとても見事なものであった。
そして枝雀の芸は人をむりやりに笑わせる感じが無かった。
なぜなら自分自身が第一番の客であり、
自分自身に新鮮な動きを求めていた。
その証拠に、自分が思わず発したアドリブに思わず噴出すなどで笑いを取ってしまうこともあった。
人を笑わせるのではなく、
一緒に笑うというその姿勢が、
枝雀を当世一代の爆笑王にしたのだろう。
小佐田はん。
人間、ボーっとせなあきまへんで。
それに気ィついたんで、

このごろボーっとするお稽古してまんねん

枝雀はよく、
「笑いの天才である」
と指摘される。
天才だったのは確かだが、 
強いて言うなら
「お稽古の天才である」
というべきかもしれない・・・
枝雀の稽古は、近所を散歩しながらブツブツと、
あるいは家の中でウロウロとしながらしたようで、
不審者に見られるほどであったとも。
この名言は、落語作家 小佐田定雄さんが、
ある日引き止められて言われた言葉であったそうだ。
その言葉を聞いて、
「あのー、師匠。
『ボーっとする』という姿勢と、『お稽古する』という姿勢は矛盾してんのと違いますか」
と答えると、一瞬キョトンとした表情を浮かべると、
天を仰いで、
「アーッハッハッハ!
ほんにそれも、そうだんなあ。
アーッハッハッハ!」
と言ったという・・・
あれだけの女ちょっとないね。うん。
かわいい。人が見たらどや知らんけどわいが見たらかわいい。
(中略)

もう、あれ外したら他ないね。うん。
また、あれももらい手ないやろけどね。

これは、「替り目」での酔っぱらいの嫁さんの述懐での言葉。
これには、かつら枝代夫人(本名前田志代子)像ともいえます。
中略部分の中でも、
「ありがたい。根が陽気や、うん。
ほんまやで、わいらみたいね妙にまじめな人間はいかん。
落ち込む時がある。
あれええね。落ち込まん。落ち込む穴がないのやね。」
「不思議な女やねぇ、ふぁー、ふぁー、いうてね、
 『一緒に死んでくれぇ』
っちゃなこと言うても、
『イヤ』っちゃなこと言うてね、
『うちは生きていく』
ちゃあ言うねやあれ。」
「酒飲むことも、『あんた飲めんようになったら仕方ないけれども、幸せにして、飲める時は飲んでください。
それで気が発散すれば、それが何よりですよ』・・・
わい毎晩飲んで帰る。
考えたら酒飲みの世話するためにいるようなもんやね。」
「そんなこんなで年取っていくなんね。
因果なもんや。」
「腹の中では
『すみません、ありがとうございます』
っとこう言うけどね、
顔見たらそういう甘いとこ見せたらいかん。
顔見たら
『バカーッそっちぃ行けー!』
言うて、腹んなかでは
『ごめんなさい、ありがとうございます』・・・」
嫁さんがまだ表にいて立っているのに気がつくと、
志代子夫人のいる下座の方に向き直って、
「お前、聞いてるのか!
早う行け、こらっ!」
「ウーーン、みんな聞かれてしもたー。
どんならん。一生の不覚やね。」
と照れ隠しに喋った。

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ドアホ!!

あのねぇ、お前という人間ねぇ、
平生な時はスカタンして俺ぁ好っきゃけど
こういう何かせんならん時ぁイライラするわ!

「不動坊」でのすき直し屋の徳の言葉。
投稿者が見る限り、このような何処か温かみのある雑言は落語界で珍しい。
普段から「萬事気嫌良く」「まぁるくまるく」を心がける師だが、子ども時代は何かにつけ逆上したりする「むかつき」であり、父親に
「お前はええ子やねんけど、腹立てんのだけはやめなさい」と、
遺言で言われるほどだったよう。
(もっとも私生活ではその極端に鬱病を発症するなど、あまりそのスローガンを生涯で達成した感覚はなさそうだが)
そしてそのスローガンは上記の台詞に現れる。そのため大変(どの演目もそうだが)ほのぼのとした雰囲気を生み出すのに長けていた人と言える。
わたしはまぁ、生来あんまりおしゃべりせん方でございます。
時期時期やナシにね、ずっと、生涯を通じてですね、あんまり、おしゃべりせん方ですね。
だからもう終局はホントにねいつも言うように、だまーって座ってんとねぇ、みなさんもね、嬉しいなー、っていうようなねぇ。
なってくれはったら一番ありがたいなと思ってますもんね。
いや難しいことですけどね。

師匠はよーう、おしゃべりになりますなぁ。

古典落語を現代的価値観・感性で表現しなおす野心的努力を高く評価され、又「己を語る」独自の型を発明し、天才と称される一方その荒唐無稽、破天荒ぶりから
「異端児」
という評価も受けた、
故・立川談志。
枝雀も又、襲名後あまりに変貌した軽く見れば破天荒な芸風から、「異端」の評価も受けた稀有の落語家であり、談志は枝雀の芸を「好きになれない」と低い評価をした一方、「緊張の緩和理論」を支持する、また遅れてであったが「SR」に「落語界の研究議題になる」とその演目の中に息づく「訳のわかるようなわからないような」理屈「のみ」に興味を示し、その理論的な芸風からどこか親交もあった。
(枝雀本人は談志を毛嫌いしていたようだが)
上記の名言は、談志との対談で枝雀の言った皮肉である。
対談が始まっても、両名とも何もしゃべり出さない。
仕方なくその沈黙から、前文部分の自分の芸の理想を「語る」とそう言った。
因みに談志は、
「圓楽ほどじゃないけどね….」と返して「黙っていての凄さ」から逆の自分の理想を語った。
枝雀「師匠は正直な人ですねぇ。言うたはることに嘘がありません」
上同人「正直に、あんまり沢山ものを言えるというのは凄い事でっせ」
談志「嘘と言わないでね、それやっぱり、建前も大事でね、本音と建前のバランスが取れてんのが一番大事でね俺みたいに本音をあんまり喋んのは人にも勧めないけどね、落語っていうのは本音を語る稼業だと思ってます」
上同人続けて「貴方の場合はどっちかというと人を愉快にさせる、俺はそうじゃない、不愉快にする。問題提起するんだから不愉快でしょ。観客をいい気持ちにするんじゃない。同じレベルにおいてね、『どーだ観客俺のぶつけたテーマを、どう受け取ってくれるんだ』っていうのが、だから落語って錯視をやってんじゃないの、自分の人生を落語と同じように暮らしている、ね。」
などの名言をここでだが残しておく。
人を愉快にさせるという「王道」のような「悪魔」のようなもののため型にはまらないスタイルで「爆笑王」の名をほしいままにした
桂枝雀・99年没。
又、古今亭志ん朝・01年没、
三遊亭圓楽・09年没、
そして2011年11月21日、
立川談志。
「(志ん朝は)さっさと死にやがって、俺は死にたくても死ねないのに…。志ん朝と言い、枝雀と言い、俺がライバルと思ったやつはみんな先に死んでしまう。死なれちゃあ、勝てないじゃないか」
と枝雀の自死を悼む、
自殺願望さえあった談志は死後なお、ファンを生む存在となり、落語界の大墓銘に刻まれる。

面白い人や。

「代書」「池田の猪買い」「米あげ笊」「八五郎坊主」など、多くの演目に登場するフレーズである。
どの演目も、「粗忽者」に対して彼の目的地の人間(仕事の紹介先等)等が最初からおかしな事を言うという言葉である。時に、
「はよ言うたらアホやがな」と続けることもある。
普通聞く限りでは粗忽者を迷惑だと思っているように感じさせる言葉を言わせる噺家は多いが、枝雀はその世界観のためにこのように言っている。
いう側もあくまでほのぼのとしていて、理想的とも言える人柄である。一方粗忽者を
「念を残さんともうしますか、能天気にね、まぁまぁあしたは明日の風が吹く、まぁ済んでしもたことは仕方がないわいというようなふうに、ま、暮らせればですが、これが一番いいのではないかとも思うのですが、そういう無責任なノーテンキな男が落語の主人公で...。」
と理想的なようにも描いている。

足の指先は、座布団から離さない。

その破天荒な芸風は、自身の心のベクトルをそのまま表していた。
ところがその中には鬱を呼び起こす程の理屈理論が渦巻いてもいた。
毎回観れば風味を少しコロコロと変えて行く高座。
その一方で芸のこだわりもとても強かった。
理屈を使うことで芸に強靭な基盤を固める。
だが同じく理論派噺家、立川談志を少し嫌悪するほど理屈嫌い。
そもそも人の話をじっと聞くことができなかった。
でも落語や笑いについては長々と話せ聞けた。
どうだろう、この矛盾。
芸のこだわりといえば多かったが、ほぼ厳則になっているのが上記のものである。「親子酒」で高座から転げ落ちる時も座布団を抱えて落ちたとか。
もともと落語にルールがあるわけではないが、春風亭小朝が指摘するように「師匠の芸風はまず東京に行けば直される」
そして「芸にはある程度の決まりがあるものだが、枝雀師匠は『座布団から離れない』以外は全部壊していましたね」...と。
つまりそれは最大限ルールを壊した結果であったという。
もし、枝雀が再び鬱に打ち勝ち、落語を続けていたとすればどうしていただろう。
座布団を飛び出す、振り回すなど一層パワーフルな高座か。
米朝の如くキッチリとした正統型に戻ってしまうのか。
それとも本人の願望であった、志ん生のように、黙っているだけで様になり、最高に笑える最終形態か。
その三通りの答えをこれからの若手が導き出してくれるに違いない。
最後にこの名言はNAVERまとめより、tatakauhito兄のご投稿から執筆したことを白状する。有難うございました。

枝雀の顔を見ただけであー、おもろかったと満足していただけるような芸人になりたい。

枝雀も又、後の所謂お笑いという芸能の究極体を仮定した人物の一人である。
小米時代、師は笑いの分類時に笑いという感情の程度には大きく分けて三段階あると分類をした。
俗的とでも言うか、普通の「笑い」の状態を「緊張の緩和による笑い」、その土台にある一つ程度の大きい状態を「喜びの笑い」また土台にあるのが「悟りの笑い」となっている。
一生、又は生を変えても笑いの感情が継続し続ける状態となる「悟りの笑い」の境地、これを枝雀は誰よりも自分に求めた。何も喋らないでも、お客さんが笑ってくれる、その高座をきっと作ってくれる、それ程の鬼才であった。第二の枝雀が現れた時、それはいつの日か?
現在でいうと柳家小三治が似たようなことをやっていることもある。それ以外にも枝雀の系譜を継いで行く者はお笑い界に多くいる。その者がそれぞれ、答えを導き出してくれるに違いない。
NEVERまとめはtatakauhito兄より、名言を拝借させていただきました。誠に有難いです。
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