栗林忠道 7

1891年7月7日 - 1945年3月26日
日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。位階勲等は従四位勲一等(旭日大綬章)。長野県埴科郡西条村(現:長野市松代町)出身。 第二次世界大戦(太平洋戦争/大東亜戦争)末期の硫黄島の戦いにおける、日本軍守備隊の最高指揮官(小笠原兵団長。小笠原方面陸海軍最高指揮官)として知られる。...-ウィキペディア

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國の為重きつとめを果たし得で
矢彈盡き果て散るぞかなしき

國の為 重きつとめを 果たし得で 矢弾尽き果て 散るぞかなしき
大東亜戦争殉難遺詠刊行会出版 大東亜戦争殉難遺詠集(絶版)より。

    こんな絶望的な名言はない - 銘無き石碑

仇討たで野辺には朽ちじわれは又
七度生れて矛を執らむぞ

仇討たで 野辺には朽ちじ われは又 七度生れて 矛を執らむぞ
大東亜戦争殉難遺詠刊行会出版 大東亜戦争殉難遺詠集(絶版)より。

醜草の島に蔓(はびこ)るその時の
皇國(すめくに)の行方一途に思ふ

醜草の 島に蔓(はびこ)る その時の 皇國(すめくに)の行方 一途に思う
大東亜戦争殉難遺詠刊行会出版 大東亜戦争殉難遺詠集(絶版)より。

予ハ常ニ諸子ノ先頭ニアリ

硫黄島玉砕の際に兵団長栗林閣下が言った一言
この後閣下は大腿部に砲撃を受け自決
このとき擂鉢山はおちていた

戦局最後ノ関頭ニ直面セリ
兵団ハ本十七日夜総攻撃ヲ決行シ敵ヲ激摧セントス
各部隊ハ本夜正子ヲ期シ各當面ノ敵ヲ攻撃 最後ノ一兵トナルモ飽ク迄決死敢闘スベシ 大君顧ミルヲ許サズ
予ハ常ニ諸子ノ先頭ニアリ

指揮部隊へ最後の指令。

ここはまだ日本か・・・?


    この言葉が言われてから、どれ位経ったのだろうか?
    この言葉は、現在にこそ、相応しい。 - 衛狸庵

    全くその通りです - 銘無き石碑
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各々!十人の敵を倒すまで死ぬことは禁ずる!
生きて・・・再び祖国の地を踏めること無きものと覚悟せよ

アメリカがサイパンを出発、そのときの訓示

    もはや人の命も個人の思いも心も道具としか思ってないね 指示する人間はどこでも大抵そうだ むしろ最初から死ぬと心で諦めてる所も凄く嫌悪感がある - ゆう

    ↑そら、当時の軍人として、ストレート生きろとは言えんわさ。十人の敵を殺すまで死ぬな=何がなんでも生き延びろてことだろ - 銘無き石碑

    確かにそんなことはソ連でもナチスでも言うだろう なにがなんでも生き延びろ何て事は思うわけがない
    アメリカからバカボムと言われた人間が入って操作する自殺爆弾の特効爆弾や特攻隊 そしてインパールや空襲や原爆の凄まじくむごたらしい一般人の犠牲をともなってもまだ戦争を続けるつもりの軍人と政府高官は大勢いた 何がなんでも生きろなどと言うのは申し訳ないけど美化しすぎたよ - ゆう

    美化し過ぎではない 軍人の気持ちもわからないのか栗林さんは本当にお優しい方なのだぞ - 銘無き石碑

    この言葉の意味をわかってない奴(上から2番目のコメントの奴)がいて草
    当時の状況のことをもっと勉強したほうがいい
    当時の陸軍の玉砕が美化されるような雰囲気の中、自決を禁じるというのはかなり異例なこと
    ここで下がれば後は大切な家族のいる本土決戦の状況でみんなで逃げて生き延びようとアホな指示出す軍人がどこにいる。
    自決を禁じるというのは心がないとかではない。諦めずに無駄死にだけは絶対するなという優しさからの言葉。
    そりゃ栗林中将含め、みんな生きて帰りたかったさ。
    祖国の地を踏めることは無いと覚悟せよ…とはここで絶対死ねという意味では無い。 - 銘無き石碑