人物一覧

植松聖 名言数 1

2016年7月26日に障害者利用施設 やまゆり園をテロ目的で襲撃しやまゆり園の利用者の障害のある人のみを標的に19人もの人々の命を奪った相模原事件を起こした戦後最大の大量殺人犯 障害者へのヘイトクライムテロとも言う

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どうして助けてあげないの? 何でー助けるの?
あははは あはっあは 人間に生まれなくて良かったー あいつらめっちゃバカ

植松聖の描いた漫画に登場する異生物の発言

ブレントン・タラント 名言数 3

事件当時28歳のバックパーカーの男で世界中を父親の遺産で旅行していた 極右思想を子供の頃から持っておりイスラム系移民に対する憎悪を年をかけるほどに募らせイスラム国などのテロリストの起こしたある事件に怒りが爆発しイスラムを信じる人への大量殺人の決意をする 最終的にはニュージーランドのクライストチャーチのモスク2箇所で銃を乱射し51人もの人々を殺害したその犠牲者には三歳の子供もいた ヘイトクライムの大量殺人犯で植松聖との共通点も多い

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なぜだれも立ち上がらないのか?なぜだれも立ち上がらないのか?なぜ私は立ち上がらないのか?
呪文は解けた。なぜ私は立ち上がらないのだろうか?私が立ち上がればよいではないか?私でなければ、だれが立ち上がるのか?私ができるのであれば、なぜ他の人にやらせようとしているのか?
ここで私はなにかをする決意をした。ここで私は、暴力に訴えた行動をする決意をした。私自身が暴力に訴えて、侵略者どもに戦いを挑む。

犯行マニュフェストより

そのとき私は西ヨーロッパを旅行しており、フランス、スペイン、ポルトガルなどの国々に行った。私を変えた最初の出来事は、2017年4月7日にストックホルムで起こった。それは、私が成人してから頻繁に起こっている終わりの見えないテロのひとつだった。
しかし、なぜかこのときだけは違っていた。テロ攻撃があるたびに私が示していた無感覚な冷笑的態度は、このときは現れなかった。これまで私は、イスラムの侵略者による攻撃があるたびに冷笑していたが、このときばかりはこのような態度はもはや現れることはなかった。私の顔から嘲笑的な表情は消え去った。このような暴力を無視することなどもはや私にはできなかった。このときはなにかが違っていた。
この違いはエバ・アカールンドだった。若くて無垢ななま死亡したエバ。エバがイスラム教徒の攻撃で死亡したとき、彼女は学校の後で母親と会うために歩いていた。エバは聴力に問題があったので、攻撃者が近づいてくるのが分からなかった。エバの侵略者による侮蔑的で暴力的な死と、それを止めることのできなかった私の無能力さは、私のこれまでの無感覚な冷笑的態度を、ハンマーで叩き壊した。
もはや私は攻撃を無視することができなかった。これは、私の民族、私の文化、私の信仰、そして私の魂に対する攻撃だった。それを無視することはもはやできなかった。

犯行マニュフェストより

この攻撃は、歴史を通じて、ヨーロッパを侵略した外国人によって殺戮された膨大な数の死者の復讐をするためである。
この攻撃は、イスラムによって奴隷化された何百万ものヨーロッパ人の復讐のためである。
この攻撃は、ヨーロッパ全域のテロで命を落とした何千ものヨーロッパ人の復讐をするためである。
この攻撃は、エバ・アカールンドの復讐をするためである。
この攻撃は、侵略者を物理的に脅して殺害し、ヨーロッパに流入する移民の数を減少させるためである。
この攻撃は、我が民族(白人種)の政治的な敵を挑発し、彼らの限度を越えて行動を拡大させ、その結果として必然的に起こる我々の反撃を経験させるためである。

オーストラリア政府に送った犯行マニュフェストより
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オットー・ヴァイニンガー 名言数 1

1880年4月3日 - 1903年10月4日
今日では性差別主義かつ反ユダヤ主義であると考えられている。-ウィキペディア

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男性は性欲を所有しているが、女性は性欲に所有されている

光武帝 名言数 2

前6年 - 57年後漢王朝の初代皇帝。 王莽による簒奪後の新末後漢初に混乱を統一し、漢王朝の再興として後漢王朝を建てた。廟号は世祖。諡号の光武帝は漢朝を中興したことより「光」、禍乱を平定したことより「武」の文字が採用された。「隴を得て蜀を望む」「志有る者は事竟に成る」「柔よく剛を制す」(『黄石公記』(=『三略』)の引用)などの言葉を残している(『後漢書…-ウィキペディア

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疾風に勁草を知る(強い風が吹いてみて強い草がわかる、転じて困難に遭遇して初めて人の才能や人徳がわかるということ)。

苦戦続きで多くの部下に逃げられてしまった光武帝が、古参の腹心王覇に語った言葉。
故事成語として有名な「望蜀」の由来になった言葉。

人足るを知らずして苦しむ、既に隴を平らげ、復た蜀を望む、一たび兵を發する毎、頭鬚は白み為り(人というものは、満足する事を知らぬ為に苦しむものである、ようやく隴を平定したかと思えば、すぐに蜀を得ようとする。出兵する毎に心配で髪と鬚に白いものが増えることである)。

光武帝が自嘲と自責の念とあわせ長年の功臣岑彭へ送った書簡に見られる言葉
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