0 コメント数 シェア ラディカルに言えば、被害者遺族という立場すら、本村洋という人間の一面に過ぎない。そうあって欲しいと思うんだ。もっとだらしない本村洋の一面があってもいいし、バカなギャグを飛ばす本村洋がいてもいい。本当は女好きの本村洋とか、子犬とじゃれる本村洋とか‥‥‥。それが人間というものだし、そうあったとしても、事件の意味が薄れるわけでも、被害者の権利確立の運動の必要性がすむわけでもないから。 本村洋 宮崎哲弥 藤井誠二『罪と罰』(イーストプレス,2009)P220
0 コメント数 シェア 「独断」でもいいんだよ。そもそも言論圏というのは、もっと荒々しいフィールドであるべきなんだ。思想の自由市場というのは、綺麗に塗装された平坦な道路じゃなくて、地肌が剥き出しで、岩や石がゴロゴロしていて、そこかしこに凹凸がある。そんな道であるべきなんです。そのように議論誘発性込み、可謬性込みの自由でなければ、言論の自由なんて意味がないと思う。 本村洋 宮崎哲弥 藤井誠二『罪と罰』(イーストプレス,2009)P199 9 タグ