0 コメント数 シェア 物を考えるところは脳髄ではない神経細胞の大集団は、全身の細胞各個に含まれている意識感覚の各種類にそれぞれ相当する、泣き係、笑い係、見係、関係、惚れ係なぞいう、あらん限りの細かい専門に分れながらアノ通り、夜となく昼となく、全身三十兆の市民の気持ちを隅から隅まで反射交感させられているのだ 夢野久作『ドグラ・マグラ』(社会思想社,1976) 6 タグ
0 コメント数 シェア なにしろアタマ万能主義の世の中だからな。 アー、脳髄は「我思う、故に我あり」なんて、コトに自分を特権化したがるわるいくせがあるが...。 上記は小説本編のセリフでは厳密になく、松本俊夫監督の映画版のおいてのセリフであり、博士の主張を見事に体現している。。鉤括弧部分はデカルトの「方法序説」上の言葉そのままで、様々な解釈を有するが、即ち「私が考えている、のだから私は存在する」ということだろうか。我々はつい、脳に生かされ、脳によってものを考えていると思いがちだ。だが全身の細胞がめいめい勝手にモノを考えているとすれば否定できるだろうか。する手だてがあるとすれば「そうとしか考えられないから」だろうか。どんな科学的証拠を並べたとしてももしや「脳髄は全身の細胞の思考を整理し、必要な情報のみをまた全身に送り届ける、体内の国会、あるいは映写機やスクリーンのようなものにすぎない」と、言われてみれば...否定はできないこともないだろうが少し飲み込めばそうかもしれんと考えてしまうだろう。ヒューイによればデカルトは肉体と精神を切り離して考えた。だがそれに対し正木博士は、脳髄と精神とを切り離した。即ち精神は細胞に宿る霊力、の、ようなものつまり細胞の思考、また五臓六腑の集合的思考を称すると定義、また脳髄をほぼ無能たるただの精神思考制御処理機関と定義している。これによって胎児が一つの細胞から分裂、成長していくことの遺伝学的証明や、いわゆるユングの集合的無意識を「祖先の強烈な精神外傷や経験は、個人の記憶を超越し子孫に代々伝わることがある」と生理的に説明し、遺伝性精神病の発生要因を解明している。この根本理論を、傲慢ながら精神医学界、脳科学界に捧ぐる。この理論を存分にブっ潰していただきたいものである。いつの時代も疑うこと、パンク精神は大事だ。デカルトが間違ってると言いたいわけじゃないんだが結局すでに定義だてされたことを徹底的に疑うことも大事だと私は思う。架空の人物だからと言って侮るべからず。まぁ嘘だから架空として楽しめるんだろうが。 5 タグ