アンネ・フランク 54

1929年6月12日 - 1945年3月
『アンネの日記』の著者として知られるユダヤ系ドイツ人の少女である。 ドイツのフランクフルト・アム・マインに生まれたが、反ユダヤ主義を掲げる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の政権掌握後、迫害から逃れるため、一家で故国ドイツを離れてオランダのアムステルダムへ亡命した...-ウィキペディア

両親にできるのは、子によき助言を与え、
正しい道につかせてやることだけ。
最終的に子の性格形成を左右するのは、その子自身なのだ。

というわけで、いよいよ問題の核心、わたしがなぜ日記をつけはじめるかという理由
についてですけど、それはつまり
そういうほんとうのお友達がわたしにはいないからなんです。

1942年6月20日

親愛なるキティーへ
日曜の朝からいままでに、何年もたってしまったような気がします。
いろんなことが起こって、
まるで世界じゅうがひっくりかえったみたい。

1942年7月8日
(隠れ家へ)

親愛なるキティーヘ
これはエイプリルフールじゃありません(日付けにご注意)。
その反対です。
「不幸は重なるものだ」ということわざ、
これがきょうほど身にしみたことはありません。

1943年4月1日

そしてなおも模索しつづけるのです、わたしがこれほどまでに
かくありたいと願っている、そういう人間にはどうしたらなれるかを。
きっとそうなれるはずなんです、もしも・・・・・・・・
この世に生きているのがわたしひとりであったならば。

1944年8月1日
(ふたりのアンネ)

人間って、どうしていつもほんとうの気持ちを隠そうとするのか、
あなたにはそれがわかりますか?
どうしてわたしは人前に出ると、
本心とはまるで裏腹な行動をとってしまうんでしょうね?

1944年1月22日
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ぜひわかっていただきたいのは、
この良いほうのアンネを知るひとはひとりもなく、
そのため、たいがいのひとがわたしを、
我慢のならないでしゃばりだと思っていることです。

1944年8月1日
(ふたりのアンネ)

でも、これだけじゃなんのことかわからないでしょうから
『不思議の国のアリス』の王様の台詞じゃありませんが
‘はじめから始める‘ことにしましょう。

1944年3月14日
(腐った野菜)

親愛なるキティーへ
「ショックにつぐショック。はたしてこれが種切れになることがあるんだろうか」
正直な話、こんな疑問を自分たち自身につきつけたくなります。
まああててごらんなさい、
いちばん新しいショックがどんなものだったか。

1944年4月15日

パパの散髪はわたしの役目です。
お前はとても上手だから、戦争が終わっても、ほかの床屋にはもう行かない、
とピムは言い張っています。
そうちょくちょく耳を切りさえしなければ、もっといいんですけど!

1943年3月12日

たとえたくさんの人に愛されていても、
人間は寂しくないとはかぎりません。
愛されてはいても、
それだけではだれにとっても、
‘唯一無二の存在‘にはなりえないからです。

1943年12月26日
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ところでわたしは、‘やかましすぎる‘とか言われて、
日中やたらに「しーっ、しーっ」と制止されていますが、
それだけじゃまだ足りないみたいに、
わたしと寝室を共有している紳士は、
最近では夜になってまで、
「しーっ、しーっ」を連発します。

1942年12月22日

親愛なるキティーへ
たぶんあなたにはおもしろいでしょうから(わたしにはちっともそうじゃありませんけど)、
きょうはわたしたちがこれからなにを食べようとしているかを
お話しましょう。

1944年3月14日
(腐った野菜)

アンネは日記帳に「キティー」と名前をつけて、
家族のこと、友だちのこと、自分自身のことなどを
「キティー」に宛てた手紙として記すようになりました。
「キティー」はアンネにとって、「心の友」でした。

アンネのおとうさんは、楽天的な人でした
彼が入って来ると、太陽が昇ったような気持ちになります。

ハンナ

アンネはわがままな少女でした
非常にきれいで、誰もが彼女をとても可愛いと思い、
いつも私たちの祝典の中心でした

ハンナ

アンネは当時(中学生)すでに文章が上手でした

ハンナ

雨よ!
アンネたちを守ってください

ミープ

もしかすると、わたしだけを特別な目で見てくれたと思ったのは、
こちらの思い過ごしだったのかもしれない。
ああペーター、どうかあなたにわたしのこの姿が見えますように。
心の声が聞こえますように。

1944年2月19日

まるで悪夢になりかかっています。
夜にだけでなく、昼間にも彼のことが一刻も頭を離れないのに、
じっさいにはすこしも彼に近づけません

1944年2月28日

はっきり言ってしまうと、わたしはちっともマルゴーみたいになりたくなんかないんです。
わたしから見れば、あんまり消極的すぎるし、おとなしすぎますから。
何事も他人の言いなりで、けっして我を通そうとしません。
わたしはもっと強い性格になりたい!

1943年2月5日

もっとも、うちの両親はたいがいの親とちがって、
成績が良くても悪くても、あまり気にしません。
わたしが健康で、幸福で、それであまり生意気でさえなければ、それで結構、
あとはどうにかなるという主義です。
でも、わたし自身はその逆です。
劣等生になりたくはありません。

1942年7月5日

きょうはこのぐらいにしておきます。
ペーターのことで頭がいっぱいで、彼をながめる以外に、
なにも手につきません。
じゃあまた、アンネ・M・フランクより

1944年3月20日

(アンネの日記は)もっともすぐれた戦争に対する告訴状だ

オードリー・ヘップバーン

アンネは、ガス室の前に並ばされている子供を見て涙を流していた

アウシュビッツ収容所