西田幾多郎 72

1870年5月19日 - 1945年6月7日
日本を代表する哲学者。京都大学教授、名誉教授。京都学派の創始者。学位は文学博士(京都大学・1913年)。 同郷の鈴木大拙(本名:貞太郎)、山本良吉、藤岡作太郎とは石川県専門学校(第四高等中学校の前身、のちの第四高等学校)以来の友人であり、西田、鈴木、藤岡の三人は「加賀の三太郎」と称された...-ウィキペディア

私はかつて愛の対象を人と考えることによって、物を対象とする欲求と愛とを区別し、また真の愛とエロスを区別した。真の愛というのは何らかの価値のために人を愛するのでなく、人のために人を愛するということでなければならぬ。

出典:西田幾多郎哲学論集Ⅰ 「私と汝」

歴史的生命が自己の脈搏の中に流れるもののみ真に創造するものであり、真に見るものである。

出典:西田幾多郎哲学論集Ⅱ 「論理と生命」

自由というもののない所に、人間はない。しかし人間が徹底的に自由となろうとすればするほど、絶対の鉄壁に打当る。人間が真に人間であろうとすればするほど、人間は危機の上に立つのである。

出典:西田幾多郎哲学論集Ⅱ 「人間的存在」

他人の物質欲を満足せしむることは精神的要求を満足せしむることではない、
他人の生物的生命を救ふことは直にその霊的生命を救ふことではない。

出典:論文『真善美の合一点』

純なる道徳の立場からは、他人を愛敬すると同じく、自己をも愛敬せねばならぬ。
宗教的立場からは兎に角、無意義に他の為に自己を犠牲にするのも道徳とは云はれない。単に他人の為にすること又社会の為にすることのみが道徳ではない。

出典:論文『社会と個人』

我々は日常時々刻々に瞬間に接して居ると考へて居る、併しその実、我々はいつも唯、過去に接して居るのである、瞬間に接して居るのではない、単に因果に押し流されて居るのみである。唯、我々が真に一身を賭する時のみ、真に決断する時のみ、我々は真の瞬間に触れるのである。

出典:論文『自愛と他愛及び弁証法』(無の自覚的限定)
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私が人格的となるといふことは、創造的なるものに接するといふことでなければならぬ。人格的となればなる程、創造的なるものに接するといふことができる。逆に創造的なるものに接すれば接するほど、私は人格的となる。

出典:論文『現実の世界の論理的構造』(哲学の根本問題 続編)

我々の人格が失はれ行く過去を掻き集めて現在の一点を突破する所に、
真の直観といふものがあるのである。

出典:論文『形而上学序論』(哲学の根本問題)

私が働くといふことは、客観を主観化する、自己を客観化するといふ意味を有すると共に客観が自己自身を主観化する、一般者が自己自身を個物化するといふ意味を有つて居る。

出典:論文『私と世界』(哲学の根本問題)

真の直観は創造的直観でなければならない、時を生む直観でなければならない。矛盾的自己同一的な絶対現在の自己限定として、時が成立する過程でなければならない。

出典:論文『自覚について』(西田幾多郎哲学論集Ⅲ)

我々の意識的自己の自覚的世界というのは、自己の中に世界の一焦点を含み、自己自身を限定する一つの世界として、歴史的世界の一つの自己表現面ということができる。

出典:論文『場所的論理と宗教的世界観』(西田幾多郎哲学論集Ⅲ)
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歴史は繰り返すといわれるが、その実は歴史は繰返すものではない、歴史は一歩一歩に新なる創造である。近世文化は、歴史的必然によって、中世文化から進展し来ったのである。中世文化の立場に還ることの不可能なるのみならず、またそれは近世文化を救う所以のものでもない。今や新なる文化の方向が求められなければならない、新なる人間が生まれなければならない。

出典:論文『場所的論理と宗教的世界観』

いずれの国家民族も、それぞれの歴史的地盤に成立し、それぞれの世界史的使命を有するのであり、そこに各国家民族が各自の歴史的生命を有するのである。各国家民族が自己に即しながら自己を越えて一つの世界的世界を構成すると云うことは、各自自己を越えて、それぞれの地域伝統に従って、先ず一つの特殊的世界を構成することでなければならない。

出典:世界新秩序の原理

働くということは唯意志するということではない、物を作ることである。我々が物を作る。物は我々によって作られたものでありながら、我々から独立したものであり逆に我々を作る。しかのみならず、我々の作為そのものが物の世界から起る。

出典:絶対矛盾的自己同一

芸術的直観は無限の作用でなければならない。芸術的創作作用においては、我々は概念的に物を構成するのでない、また単に受働的に物を模倣するのでもない。物が我を唆すのである、我々を動かすのである。物が我となり、我が物となる。

出典:弁証法的一般者としての世界

絶対愛の世界は互に鞫(さば)く世界ではない。互に相敬愛し、自他一となって創造する世界である。この立場においては、すべての価値は創造的立場から考えられるのである。創造はいつも愛からでなければならない。愛なくして創造というものはないのである。

出典:場所的論理と宗教的世界観

自然と文化とは相反するものでない、自然は文化の根である。深い大きな自然を離れた人為的文化は頽廃に終るの外はない。大きな一枚の大理石から彫み出された様な文化であってほしい。我々はいつも眼の前にちらつく人為的文化にのみ憧れる必要はない、深く己の奥底に還つてそこから生きて出ればよい。

出典:「大震災の後に」
大正十二年二月二十日

わが心深き底ありよろこびも憂の波もとどかじと思う

出典:自選詩歌集

真の自覚は単なる知的自覚にあるのではなく、意志的自覚にあるのである。働く自己にして始めて内容を有する自己ということができ、意志することは真に自己自身を知ることである。

出典:論文「叡智的世界」

私が行為するということは、自己の意識を越えた外界を自己の中に取り入れることである、外界の出来事を自己の意志実現として、自己の内容を表現するものと為すのである。

出典:論文「叡智的世界」

身体は単なる道具ではない、身体は意識の底にある深い自己の表現である。かかる意味において我々の身体は形而上学的意義を有つということができる。我々の真の自己の内容には、必ず行為を伴わねばならない、身心一如の所に我々の真の自己が現れるのである。

出典:論文「叡智的世界」

我々の真の自己は歴史の世界の中に生死するのではない。歴史の中に生死するものはいわゆる意識的自己であって、叡智的自己の影像に過ぎない。我々の真の自己は、意識一般の底に、なお自覚の意味を深めることによって、考えられる叡智的世界に住んでいるのである。而してかかる意味においては道徳的世界がその最も深いものと考えることができるであろう。

出典:論文「叡智的世界」