0 コメント数 シェア 「慈悲」は、平等に注がれてはじめて「慈悲」なのであり、不平等な「慈悲」は、「慈悲」とはいえない。 AERA Mook 49『親鸞がわかる。』(朝日新聞社,1999)P111 4 タグ
0 コメント数 シェア 「他力」の仏教とは、「凡夫」という人間観を前提とする宗教であり、そして、この「凡夫」の本質を、もっとも鋭く追及したのが、親鸞にほかならない。 AERA Mook 49『親鸞がわかる。』(朝日新聞社,1999)P111 4 タグ
0 コメント数 シェア 豊かな才能も、自負心が過ぎると、人との摩擦を生じ、嫉妬を招きやすく、それがまた競争心をかき立てて、争いのただ中に落ちることにもなる。 AERA Mook 49『親鸞がわかる。』(朝日新聞社,1999)P112 6 タグ
0 コメント数 シェア 自己への執着が、「煩悩」だと自覚されたとき、そして、人はそのような「煩悩」から自由になることができない存在だと痛感されたとき、自己を「凡夫」だと納得するのは容易となる。 AERA Mook 49『親鸞がわかる。』(朝日新聞社,1999)P112 4 タグ
0 コメント数 シェア 自我は、しばしば、他人の功績を自分の功績と言い張って聞かないのである。それが「煩悩」のすがたにほかならない。親鸞によれば、自我の根深い自己主張こそ、「煩悩」の本質にほかならない。 AERA Mook 49『親鸞がわかる。』(朝日新聞社,1999)P112 5 タグ
0 コメント数 シェア 「縁」は、明確な原因と異なり、人間にはその全貌をうかがうことができない、不特定な原因をいう。したがって、人間からは偶然というしかない。 AERA Mook 49『親鸞がわかる。』(朝日新聞社,1999)P113 4 タグ
0 コメント数 シェア 人の自由意志は、結果を生む大切な原因であっても、一つの「縁」にしかすぎない。それを、あたかも唯一、絶対的な原因であるかのように考えるところに、自我特有の思いこみがある。 AERA Mook 49『親鸞がわかる。』(朝日新聞社,1999)P113 5 タグ
0 コメント数 シェア もし、私は悪いことはしないし、悪いことはいわない、また、まちがったことをし、悪いことを思っても、自分のなかにはそれを改める力がある、と信じている人がいるならば、その人には、「他人」は無縁であろう。いや、およそ宗教というものとも、無縁であるにちがいない。そうした人々は、道徳の世界で十分に満ち足りている。 AERA Mook 49『親鸞がわかる。』(朝日新聞社,1999)P114 6 タグ