一冊の本を讀んで、他の本を讀まうといふ欲望を起こさせないやうな本は、善い本ではない。かくしておのづから讀書に系統が出來てくる。讀書が系統化し始めるに至つて、ひとは眞に讀書し始めたといふことができる。そのとき、あの一冊の本を開いたことは自分の心を開いたことであつたのである。今や讀書の歴史は自分の生長の歴史になる。そのやうな書物においては、或ひは一年を隔てて、或ひは十年を隔てて、幾度となく、種々様々の機會に、我々はそれに還つてくるであらう。そして我々はその邂逅が偶然でなつたことを信じるに至るのである。

出典:『読書論』(三木清全集第14巻「教養と文化(二)」)
三木清

三木清 62

1897年1月5日 - 1945年9月26日
(西田左派を含めた上での)京都学派の哲学者。弟に中国文学者の三木克己がいる。...-ウィキペディア


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