人間は愛されなかったがゆえに愛を必要とする。
しかし愛を必要とするがゆえに人々から愛されなくなってしまう。
不幸な人は一生不幸でありつづける傾向にある。

加藤諦三

加藤諦三 4

生 1938年1月26日
日本の社会学者。作家。


寄せられたコメント(2)


    加藤諦三先生の本は、若い頃に10冊以上買って読みました。 ですが、私が感じたことは、物事が好転するには本質的な変化を必要とすることであると感じています。 加藤先生の本を読んで、知的な面では理解が深まるでしょうが、では一体どうやって加藤先生の提言を実現するのかということです。 加藤先生の本を読んで幸福になれるなら、皆さん幸福になれれます。 しかし現実にはそうは簡単に行きません。 なぜなら。そう簡単に自発的に献身的に他の人を愛することが出来るようにはなれないからです。 なぜ愛することが出来ないか、その理由は簡単です。 愛を身近に経験したことが極めて少ないからです。 愛を知らないので愛を表すことが不可能なのです。 知りもしない知識を人に伝えることなど不可能なのです。 それは、両親からの愛が極めて限定的で世界の果てに居る人々にまで及ぶような深遠な愛ではないからです。 要するに愛を知らない人が、無私の奉仕を行い、隣人を深く愛するなどと言うことは、不可能なことなのです。 率直に言えば、ほとんどの日本人は真に愛されたことがないのです。 私がここで触れている愛とは、無意識の世界にまで及ぶ真実の純粋な愛のことです。 無意識の世界がこの世的な力や、肉欲的な思いに支配されていては、純粋な愛の表れを期待することは不可能だと言うことです。 この世的な思いに支配されていれば、不合理な力や、権力意志的な力に負けてしまうと言うことです。 問題は極めて深刻です。 この問題に正面から真摯に勇敢に直面しようと意識し始めることによってのみ、隣人を愛することの初めの第一歩が踏み出せるのです。 要するに日本人は純粋に愛以外の混じりけのない愛で、隣人を愛することが出来ないということです。 愛を生み出す第一の原則は、自分自身を正しく受け入れ、自分自身を正しく愛すると言うことです。 自分自身を正しく愛するということは、隣人を正しく愛するという原則と、全く同一の原理なのです。 この自分自身を正しく愛するとは、一体何か? ここが重要な問題です。 自分自身を愛するとは、自分自身に対する正当な評価が出来ると言うことです。 正当な評価が可能と言うことは、正当な自己主張が出来ると言うことと、密接に関連しています。 つまり、精神的に健康な人は、自分自身に対する肯定的で、建設的で、楽天的なものの見方、考え方ができ、しかも大胆な主張が出来ると言うことです。 ようするに自己主張の出来ない人は、わたしは存在しないと言っているのです。 繰り返せば、自己主張できないということは、存在していないと言うことを意味しているのです。 それは、弱者に対する不当な差別ではありません。 健康な人は、自分自身の主張を建設的に主張できるという当然のことなのです。 ところが、日本人は幼いときから、自己主張することを不当に歪められて、育てられてきました。 およそ、修正が困難なほどに歪められています。 宗教的なことには、あまり触れたくはないのですが、これはキリスト教のような無私の奉仕のような精神的な事柄が大きく影響していると思います。 ですが、私たちはこの問題を克服して解決しなければなりません。 それには、わたしが示す愛は、本物なのかを自分自身に問いかける必要があると思います。 それが、できるなら愛する事への第一歩が歩み出せるのではと感じています。 不十分な主張があることをお詫びして終わらせて頂きます。 - トト

    どれが不幸と思うのかの意識の違いによって、見方が異なると思います。うわ〜やだなと思う事柄が一人一人違うように。 - 銘無き石碑

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