使えない兵器というのは、あるいは力というのは、
恫喝にしか用をなさない。
恫喝ないしは心理的恐怖、
ひとつのシンボリックな意味だけが強まってきた。
そうなると、片一方は使えぬ兵器に対するものとして、
人民戦争理論みたいに、
ずっと下の方からしみこんでくるやつが出てくるのは当然ですね。
それを見て被害者意識というのがだんだん勝つ力になってくる。
広島市民には非常に気の毒だけれども、つまり「やられた」ということが、
何より強い立場とする人間ができてくる。
そうすると、やられないやつまでも、
やられたような顔をする方がトクだというようになるわけです。
つまり女が男にだまされたといって訴えるようなものです。
とにかくトクなのは、なぐることじゃなくて、なぐられることだと。
そして痛くなくとも、
「あっ、イタタタ!」というほうがいつも強い立場をつくれる。
被害者という立場に立てば、強いということがわかっちゃっている。
なぜなら向こうは力が使えないに決まっているんだから。
それが世論であり、女の力だと思うんですね。
女はあくまで「弱い女をどうしてこんなにいじめるんだ」と、
断然反対してくる。
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