昭和12年佐賀県唐津市に誕生。その後九州大学法学部に進む。35年、司法試験にトップで合格、将来が嘱望される裁判官となった。 41年、静岡地裁に転任。一家四人殺害事件いわゆる袴田事件の主任裁判官となる。そこで警察の過剰な取り調べの実態を目の当たりにし、また袴田を有罪とする根拠がないと主張した。他の二人の裁判官と激しく意見を衝突させるが、合議で敗れ、死刑判決を下す。 熊本は自責の念によって裁判官を退官。酒に溺れ、家庭を失った。日本や世界中を歩き回り、自らの死に場所を探した。数回自殺するが、死ねず。 平成19年、裁判官の心得を破って袴田への謝罪をすることにした熊本は弁護団と面会、袴田に会うことは出来なかったが、袴田を応援すると記者会見で述べた。 現在も熊本典道は袴田巌氏を応援する活動を続いている。
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